読んだり食べたり書き付けたり

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原宿ドッペルゲンガー

これまでこのブログでは何度かわたしのドッペルゲンガーについて書いてきた。これまでのドッペルゲンガー体験が多すぎるせいで、ドッペルゲンガーはわたしにとって、怖いというより迷惑な存在となっている。

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が、このプチムカ*1気分をドッペルゲンガーも感じ取っていたのか、ここさいきんは周囲の人によるわたしのドッペルゲンガー体験を聞くこともなかった。新型コロナでみんな引き籠っているということもあったのだろう*2

そう、「あった」。つまり、また出たのである、ドッペルゲンガーが。それも今回は、これまでわたしのドッペルゲンガー体験を半信半疑、いや2.5信7.5疑くらいしていた夫の人が遭遇したのである。

状況はこうである。夫の人とわたしは原宿にある耳鼻科に花粉症でかかっている。春の花粉症の治療はいつも一月に始めるので、夫の人はある日、午前中の診察時間に間に合うように出かけた。なお、わたしは午前中に起きるとか、また午前中にどこかへ出かけるというのは無理な夜型の生活習慣で、その日も夫の人が出かける時には布団の国にいた。

しかし、出かけて行った夫の人がJR原宿駅に降りると、なぜかわたしにそっくりな女性が歩いていたというのである。とはいえコロナ禍下でその女性もマスクはしているわけだが、マスクをしていたって妻が歩いているようにしか見えず、「え? まだ家でぐーぐー寝ているはずでは?」と思わず凝視してしまったという。それくらい髪型や着ているもの、靴、身長などもふだんのわたしに似通っていたということだろう。

だが、わたしよりずっと細かく映画やバレエを見る夫の人の凝視の結果、その女性のアイメイクはわたしやわたしの世代ではなく、さいきんのもっと若い女性の世代のラメ使いであったので、夫の人はようやくそれがドッペルゲンガー、あるいはわたしのそっくりさんだと理解したという。

これはなかなかたちが悪い。なにせ毎日、顔を突き合わせている人間が見紛うようなドッペルゲンガー。わたしの名前を騙って詐欺でも働かれたら、言い逃れできる自信がない。その女性がこれまでわたしの周囲の人々が見かけたわたしのドッペルゲンガーと同一人物かは不明だが、これまでドッペルゲンガー体験に遭遇したり聞いたりするたびにうっすら感じていた不安は、こういうものだったのだと思う。

かくなるうえは、わたしも善く生きる努力をするので、わたしのドッペルゲンガーさんたちにも善く生きてくれるよう、祈るしかない。

*1:怒るほどではないがムッとするよりは怒り方向にベクトルが向いたちょっとムカつく状況。

*2:とはいえ職場の同僚によるドッペルゲンガー体験もあったので油断はできない。ドッペルさんに出逢ったら - 読んだり食べたり書き付けたり

天使と社畜

岸壁の下、うつ伏せで浮かぶサンタクロースを見下ろしてトナカイのルドルフは叫んだ。

「これで解放されるぜ! 野生動物なのに社畜にされるのも、もう終わりだ!」

同僚のトナカイであるダッシャーが呼応する。

「楽しい秋に、休日返上でおもちゃや材料を工場に運ぶ毎日も、もうたくさんだ!」

ほかのトナカイたちも唸るように吠える。

「帰ろう、北に」

だが北のサンタクロース基地に戻ると、なぜか斃したはずのサンタクロースがトナカイたちを出迎えた。

「げえっ、な、なんで?」

慄くトナカイたちにサンタクロースは言った。

「サンタクロースっちゅうんは概念だからのう。お前たちが殺したのはわしのガワじゃよ」

(くそっ、これで野生に帰れると思ったのに)

(ガイネンってなんだ? とにかくこいつも殺るしかないな)

トナカイたちが目で会話していると、突然空が明るくなり、天使があらわれた。

「おやめなさい、あなたがたの罪が増えるだけです」

トナカイたちの間に、もはや人間のかたちのものというだけで天使への怒りが迸る。

「んなこと言ったってこの秋から十二月の労働環境どうにかしてくれよ!」

すると、天使が脇に抱えていたファイルを開いて言う。

「年間平均に均せば、法律の範囲内です」

天使の開いたファイルの裏表紙には、PAS0NAの文字が入っていた。

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※フィギュアのお手入れで埃取りをしながらの妄想です。

共同祈願のからくり

今週のお題「大人になったなと感じるとき」

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お題を読んで思い出したことがある。わたしが幼稚園児の頃に父に連れられてプロテスタントの教会の礼拝に行ったときのことだ。わたしの実家はカトリックだが、父はキリスト教哲学者だったので、プロテスタントの交友関係があった。その関係で礼拝に行ったのだと思う。

どのプロテスタントの教会もそうなのかはわからないが、その教会の礼拝にはカトリック教会のミサと同じく、「共同祈願」のコーナーがあった。カトリックではこのコーナーでは最近亡くなった教会員のために祈ったりするのだが、そのプロテスタントの教会では違った。いがみ合っている信徒二人の公開喧嘩の場と化していたのだ。

信徒Aが「信徒Bさんの八方美人な態度が教会に混乱をもたらしていることを、主よ、赦したまえ」といえば、信徒Bが「主よ、信徒Aさんの頑固さを取り除きたまえ」と返し、信徒Aがさらに「おお、主よ、信徒Bさんのために捧げる祈りを聞き入れたまえ」とかぶせ、信徒Bが「皆さん、祈りましょう、信徒Aさんの頑固さが取り除かれますように」と煽る。

カトリック教会の「共同祈願」の係が回ってくると、わたしは周りに合わせていかに「良い子」な祈願を述べるか当時から苦心惨憺していたので、このプロテスタントの教会の「共同祈願」にはかなり驚いたことを覚えている。家族も同様だったようで、それ以来、手の施しようのない人について「祈りましょう、◯◯さんのために」と言う冗談が家庭内で流行ったくらいだ。

ずっとあと、大人になって気付いたのは、あのプロテスタントの教会の信徒AとBは、当時流行っていた全共闘の「総括」を「共同祈願」に持ち込んだのかもしれない、ということだった。カトリックでさえ、フォークギターの伴奏で歌う聖歌(プロテスタントでいう讃美歌)が流行ったくらい、当時の学生パワーは影響力があったので。

それに気付いた自分を、「大人になったな、あの頃に比べて」と思ったことを思い出したのだった。

 

人間らしい生活、それは「暇」。ギ哲は正しい

時短勤務がまた始まりそうです。一か月で元の体制に戻すのは無理があると思う感染拡大状況だけれど、どうなるのでしょうね。けれど、時短勤務でまた生活時間がずれまくっていくのだろうな……、という予感がひしひしと迫ってきます。時短なのに、なんで?と思うでしょうが、それはつまり、こんな感じなのです。

遅く行って、仕事が終わり次第(できるだけ)早く帰る

早く帰れても寄るお店がない

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なら早く帰って早く寝られるのでは?

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STAY HOMEの人向けにパリ・オペラ座、英ロイヤルバレエなど、世界中の名だたるバレエ団がメジャーなクラシック作品から稀少なコンテンポラリー作品まで様々な映像を有料・無料で放出。公開時間限定だと時差の関係で徹夜。でも遅く行くから朝6時前まで鑑賞してても平気~!

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ぜんぜん早く寝ない。むしろ出社時間も遅く行く時間ギリギリを攻めるくらいに……

 

ともあれ、時短勤務で隙間時間とはいえ暇ができるのは確かで、そこで小人閑居して不善を為す、くらいなら、美しいものを鑑賞していたほうがマシだと思うのですよね。その意味で、人間らしい生活とは「暇」がある=自由に使える時間があることとしたギリシャ哲学勢は正しいと思うのです。その暇が奴隷労働に支えられていたとしても……。

 

というわけで有料ですが新国立劇場バレエ団の『ドン・キホーテ』がこの一月十五日まで、『くるみ割り人形』が一月十五日から二月十四日までウェブ公開されます。

 

www.youtube.com

chicoissyo.com

 

www.youtube.com

www.nntt.jac.go.jp

一月十一日の新国立劇場バレ団のニューイヤーバレエ生ライブ配信が素晴らしかったので、こちらも期待!

www.youtube.com

 

https://thttps://twitter.com/nntt_ballet/status/1348542343658360836?s=20witter.com/nntt_ballet/status/1348542343658360836?s=20

自宅劇場気分づくり

新型コロナ前は隙あらばバレエや演劇を見に劇場に行っていた。なにごとも遅刻しがちなわたしだが、劇場に行くのに遅刻したことは1〜2回しかない。

ところが新型コロナ流行後にSTAY HOME 向けに世界各国のバレエ団や劇場の演目がネットで見られるようになっても、なぜか帰宅後や休みの日にそれをどんどん消化していくということにはならなかった。

一つにはわたしがリモートワークしにくい職種であって、前回の緊急事態宣言の際も時短勤務になっただけということがある。時短であっても通勤しているだけで、いや通勤しているからこそ感染対策に気を使ったりして気疲れしてしまい、帰り着いた家で、手洗い、うがい、拭くメイク落とし、スマホと腕時計の消毒などの感染要因を除去するルーティンを行ったあとに、さっさと気分を切り替えて、わくわくしてネット鑑賞する気持ちにはなかなかなれないのだ。

思えばリアルに劇場に行く場合は、チケットを取る日を決め、演目によっては夫の人や友だちに声をかけ、会社に休みを申請し、チケット代を振り込み、届いたチケットをお気に入りのチケットホルダーに入れ、お天気がよければ演目に合った和装でもしようと、場合によっては何か月も前から「その日」に向けて気持ちを盛り上げていた。わくわく感を自家醸成していたのである。

しかし自宅でネット鑑賞となると、誰に都合を合わせるでもなく、特におしゃれもせず、なんなら寝起きでタブレットを開くだけでいいのだ。なのに、なぜ鑑賞が捗らないのか?

それはやはり、リアルに劇場に行く際の盛り上げ期間がないからじゃないかしらん。あとどんな演目もだいたい三日以上、長いのは一か月とか公開してるのも「今日じゃなくても、いっか」気分になりがちなのである。そしていざPCで見始めると、演目中の気になることを途中で動画を止めて調べることもできてしまうし、宅配便が来たら立って応対もするしで、注意散漫になりがち。

さて、最後のこの注意散漫くらいはなんとかならないか、と思って、あるときヘッドフォンを装着してみた。そうしたら過去に劇場で収録された作品だと、劇場内のざわめきも拾うせいか、自分も劇場、それも真正面の席に座っているような感覚で集中して見ることができたのだった。ノイズキャンセリングヘッドフォンだともっといいのかも?と思いつつ、宅配便とかが気になるので、こちらはまだ試していないけど、自宅での擬似劇場環境づくりにヘッドフォンは欠かせないと気付いた。

あとは演目がネットで公開されたらさっさと見る! 三日間限定公開だと却って焦って早めに見るんだけどね……。

Words make the person

「◯◯さんが親だなんて、ズルい」

 

そんな「ズルい」の使い方に違和感がある。「ズルい」というのはわたしにとっては、意識的にズルいことをした点について責める言葉、もしくは依怙贔屓のように、ズルをさせよう、下駄を履かせようという行為を咎める言葉だからだ。

◯◯さんが親であることがズルい、というのは本人には選択しがたいことであって、そう言われてもその「ズル」を是正するために、本人には何をどうすることもできない。それを「ズルい」というのは言うほうにも言われるほうにもよろしくないと思うのだ。というのも、物心ついて以降、人間は自分の使う言葉で形作られるからだ。

スパイアクション映画『キングスマン』には、"Manners maketh man."というフレーズが登場する。maketh はmakeの古い形で、三人称単数現在形。"Manners maketh man."は、「マナーが人を作る」=家柄や遺伝的な血筋ではなく、礼節が紳士を作るのだ、という意味であることが映画を通して描かれる。

それと同様に、使う言葉は人を作るのだ。たとえば、なにかモヤモヤして表現しがたい気持ちを言葉で表すことができたとき、わたしたちはどう感じるかを考えてみよう。その気持ちを表した言葉が完全にフィットしていると思える時ばかりならいいけれど、言葉で表しきれない部分が幾許か取り残されてしまうこともあるのではないかと思う。

その取り残された部分、モヤモヤした気分の残りはどうなるだろうか。残念ながら、よほど鋭敏な感覚の人でない限り、言葉で表し切れなかった、そうした「部分」は記憶にいつまでも残らず、忘れられていく。そうなると、言葉を慎重に、自分の気分になるべく合うように使わないと、独自性のある人格などは形成されない。十把一絡げの「どこにでもいるひと」の出来上がりである。

そうならないために、本を読んで言葉を知り、美しいものを見たり聞いたりして、そこで得た気分をどう言い表すかを考える習慣を持っていたい。また、自分が「あのようになりたい」と思う人物がいれば、そのひとの言葉の使い方を観察してみるのもいい。繰り返すが、人間は思考するための言葉によって生成されているからだ。

そのように慎重に言葉を使わず、「羨ましい」「いいなぁ」と感じる状況に、周りが言っているからと、「ズルい」という言葉を使っていると、真に「羨ましい」と思う憧れのような気持ちは切り捨てられ、責める気分を表す「ズルい」という言葉で記憶が固定されていく。「ズルい」と表現しなければ、「羨ましい」という気分から「じぶんもああなりたい、では、そうなるにはどうしたらいいか」という思考が展開したかもしれないのに、である。

また、「羨ましい」という状況を「ズルい」と表現しているところを見た他者に、「この人、雑な言葉の使い方だな」とか、「ズルいと言われても◯◯さんのお子さんも困るやでは」と否定的な評価を持たれる可能性もある。「なさけはひとのためならず」ではないけれど、自分がなにをどのような言葉を使って思い考えているか、をときどきでも意識することは、最終的に自律した自分を作ってくれるように思う。

ただ、まれに言葉に表し切れなかった気分そのものではなく、それを忘れてしまったという喪失感だけが残ることもある。その喪失感をなんと名づけるべきだろう。それをずっと考えているのだけれど、どうも思いつかない。

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映画『私をくいとめて』@ヒューマントラストシネマ渋谷

kuitomete.jp

能年玲奈(のん)を心置きなく鑑賞できる映画でした。のんの鼻の付け根ってけっこう上のほうだったんだな、とか。

というと「アイドル映画かよ?」と思われそうだけど、アイドルがアイドルであるというだけで夢中になれる年齢をだいぶ過ぎてしまったので、脚本や演出や大道具小道具がマッチした作品じゃないと到底「心置きなく」はなれない。その意味で隠し包丁みたいにすごーく丁寧に作ってあるんだけど、それを見る側にあからさまに感じさせない手の込んだ佳作。同い年の友達が言っていたけれど、能年玲奈をもっと見たくなる、見ていたくなる一本。

そして、見ていると色々なものがオーバーラップするのも全部、監督の手の内なのかな、と思えてきたり。たとえば橋のシーンは『あまちゃん』みたいに公式にはなかったかのようにされている、広末涼子の映画デビュー作『20世紀ノスタルジア』を思い出す。

20世紀ノスタルジア デラックス版 [DVD]

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  • 発売日: 2002/04/25
  • メディア: DVD
 

能年玲奈のみつ子は原作者の綿矢りさになんだかイメージがかぶるし。いわゆる「陰キャ」と呼ばれる性格の人、そしてそういう自分の過去についていい歳してうじうじ考えがちなたちの人には心臓と涙腺直撃なんじゃないだろうか。

あと、見た時期が年始で映画内の暦に沿ってたのと、見ていた映画館が映画内に出てきたのも不思議な感じだったな。今日、この映画館で見なければどう感じただろう。時間は巻き戻せないから、もはや確かめようはないけれど。