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霊長類ヒト科アゲアシトリ属ジュウバコツツキ目の妄想多め日録

あるいは豆とご真影

アンデルセンの童話に『えんどう豆の上に寝たお姫様』という童話がある。幼いころ、この物語を読んでいたときには、本物のお姫様とは何十枚も重ねた布団の下の豆のせいでよく眠れなくなるくらいに蝶よ花よと育てられたお嬢さんである、というのがストーリーの落としどころだと思っていた。

しかし、そのことだけで王妃がお姫様を息子である王子の嫁にするという流れには、どこか腑に落ちないものを感じる。何十枚も重ねた布団の下の豆なんていう些細な事柄に、眠れないばかりか体中が痣だらけになって反応するような繊細さというのは、はたして王国を統べる者の将来の妻としてふさわしいのか? というのがその疑問の種だ。将来の王妃選びの基準がそれっていったい? と思わざるをえない。

それをすっきり解消する鍵を与えてくれたのは、『王の二つの身体 ―中世政治神学研究―』だ。中世においては王の身体は、自然に属する生身の身体と政治に属する王家と王国の尊厳を体現する身体の二つによって成立していた、というのがこの本で繰り広げられる理論の乱暴なまとめとなるのだが、そのような中世的身体感覚から前述のお姫様の物語を見直すと、かつてその物語を読んでいたときと、まったく異なる内容がそこに立ち表れてくる。

すなわち、王国を掌握する者の将来の妻として、王国に起こる些細な −それこそ豆粒のような− できごとに敏い感覚を持っているかどうかが、何十枚も重ねた布団の下にひそませた豆によってテストされ、お姫様はまさにその身体を以って彼女の王妃としての適性を証した、という物語として解読されうる。この王妃によるテストが物語上でのなにかの隠喩であったとしても、中世の身体感覚を理解している人間は、それがなにを意味するものであるかを感覚的に受け取ることができたであろう。

ちなみにこの身体感覚、ヨーロッパだけではなくアジアにもかつては存在していた。その流れを汲むのが戦前日本における「御真影」である。戦前における御真影の取り扱われ方と、戦後の天皇の戦争責任に関わる処遇を考えるとき、自然に属する生身の身体と政治に属する王家と王国の尊厳を体現する身体によって成立する王、という感覚がかすかに残っていたとわたしは思わざるを得ないのだが…