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霊長類ヒト科アゲアシトリ属ジュウバコツツキ目の妄想多め日録

及川君

岡村ちゃんがとうとう本格的に復活しそうだ。あの一瞬、復活しかけた1996年から、みんなじりじりしたり、なかば諦念を抱いたりしながらも待っていた、待ちつづけていたんだろうなあ。って、わたしもその一人なわけだが。なにせ、1996年には某J誌に復活しようとする岡村ちゃんへの思いを寄稿してしまったくらいだ。

ちなみに、その某J誌は投稿者の住所氏名を載せるしきたりになっていて(今はどうか知らない)、「オカムラ ヤスコ」なる大田原市に住む人物から、薄緑のレターセットに紫のペンというなんともヤンキーテイストあふれる組み合わせで、「靖幸を批判するな!あんたなんか何にも判っちゃいない!」みたいな調子の熱烈なお手紙をいただいたものだ。残念ながら、住所の書いてないお手紙だったので、お返事することはかなわなかったのだが。

話が逸れた。で、1996年に一瞬、復活するかと思われた岡村ちゃんだが、某J誌に載った原稿で反語的にわたしが書いたことが残念ながら当たってしまい、彼はまたどっかわれわれの預かり知らぬあたりに潜行してしまった。その間、なんとなく似た香りを漂わせて及川光博がデビューし、浮気なわたしはこちらを見ることになる。

及川光博岡村ちゃんとちがって、顔は大きくないし、ダンスはダンス部主将を務めた完成度で、じゃあどこが似ているのかというと「オレ様中心主義」なところが似ているのだった。

が、及川光博の場合、自分のエレガンスを十分に自覚していて、それをいかにエレガントに世間に伝えるか、ということの結果としての手段がその正統的な手段を踏んで会得したダンスなのだった。

岡村ちゃんのダンスはそれとは違う。岡村ちゃんは自身に内在するエレガンスになんておよそ無自覚で、「あのカッコいいダンス、おれもなんとか踊りたい!」という無闇矢鱈な熱情が彼の身体を衝き動かしているのだろうと思う。

それでもその無闇矢鱈なダンスがめちゃくちゃに見えないのは、やはり岡村ちゃんにエレガンスが宿っているからだ。それは『王子と乞食』みたいなもので、隠しても隠し切れない彼の資質だ。

だが、それと同時に、その彼のエレガンスが、彼の復活を阻んでいたんじゃないだろうか。エレガンスというのは、自覚的に、戦略的に打ち出していかなければ、これほど脆いものはない。なぜなら、世の中はエレガントに運行していくものばかりではなく、むしろその逆の論理で進行していくものがほとんどだからだ。

だから、グノーシスにおける神じゃないけれど、及川光博のようにミッチーという教理のもとにエレガンスを布教しようという強固な戦略を持たない岡村ちゃんのエレガンスは、彼の論理が通じない援交とかの女子高生文化に、いとも簡単に打ちのめされてしまったのだろう。

じゃあ、なんで岡村ちゃんは今回復活することができたのか? それは、これもまた逆説的だが、エレガンスというものが持つ、本来的な強度について、岡村ちゃんがなにかから学んだのではないかとわたしは思っている。それはたとえば、石野卓球と仕事をするなかで、テクノにおける反復に次ぐ反復とずらしという手法だったりするのかもしれないし、岡村ちゃんを待ちつづけるわれわれの存在からかもしれない。

それがわかるのは、彼の新しい曲の歌詞を聞くときだろう。急がなくてもいいし、急かす必要もない。岡村ちゃんは何度でも帰ってくることがわかったのだし、彼のエレガンスはどうやら健在のようだから。