読んだり食べたり書き付けたり

霊長類ヒト科アゲアシトリ属ジュウバコツツキ目の妄想多め日録

OGGIのブルーベリーチョコレートケーキ

なにがどうなってるのかわからないけど、たんぱく質は卵だけとはとても信じられない食感!

近いものを挙げるとすれば、ホタテのテリーヌとか、そういうもの。

すっごいカロリー高いと思うのですが、この食感に幻惑されて四回、包丁を取り、スライスして食べちゃいました。

さて、今月の『ユリイカ』は特集がクマのプーさんなわけだが、目玉はなんといっても、先日抜書きした部分を含む、石井桃子のインタビューだろう。

翻訳ものの児童文学が好きだった人なら、この人の名前は必ずどこかで目にしているだろう。ただ単に「好き」の範疇を超え、本の虫だったなら、その名は星のように輝いて見えたかもしれない。すくなくとも、わたしはそうだ。

わたしのなかの石井桃子は、最初は「おもしろいおはなしをもたらしてくれるひと」だったのが、何度も同じ本を読んだり、時には同じ原作をほかの人が訳したものを読んだりするうちに、「美しいことばで子どもの時間を記録する人」へと印象は変わって行った。その彼女が自分が翻訳した作品について語っているのである。96にもなって、理由をつけて止めなきゃまだ納得行く形に作品を近づけようとするその姿勢からは、矜持というにふさわしいものが感じられる。

さて、その石井桃子の翻訳作品のなかでも、とりわけ繰り返し読んでいる/読まれているのが、『クマのプーさん』だ。原作が含む、ただつらっとストーリーを追って読んでいるだけでは感じ取れない、微妙な皮肉や意地悪、終わっていく子供時代への哀愁、幼き者への慈悲といった空気の層は、石井桃子の使う「山の手ことば」によってフィユタージュされている。わたしは、『プー』というのはそういうものとして、味わいながら育ってきた。

ところがだ。『プー』というと、最近の日本人の間ではディズニーのアニメのそれを指すのが一般的らしい。冗談じゃない! あのべったりとしたセル画として塗り分けられた絵面だけで、そこにはあの多層的な空気は含まれていないことは明白だ。しかし苦々しく思っている間にも、あのディズニーのプーは蔓延る領域を広げていく。

そんなわたしの気持ちを代弁するかのような、「ディズニーのプー糾弾記事」が、この『ユリイカ』にはいくつか載っている。かなり、ケチョンケチョンである。「あんなの、プーじゃない!」と、日ごろ「ディズニーのプー」にご不満をお持ちの方には、ぜひ読んでみてほしい特集である。