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『機動警察パトレイバー2 the Movie Limited Edition [DVD]』

機動警察パトレイバー2 the Movie Limited Edition [DVD]
ディズニーのプーが嫌いなことは、すでに書いた。ちなみにディズニーの手による『ピーターパン』も、わたしは嫌いだ。プーの場合はプーやイーヨーが動物ではなくてぬいぐるみである、とかの基本設定はまあ守られているが、ピーターパンとなるとこれはもう、ジェイムズ・バリが原作で設定したピーターパンの年齢設定というか、基本設計が完全にぶちこわされてしまっている。

ちなみに、原作のほうではなく、映画のほうのピーターパンの年齢設定をもとにした「ピーターパン症候群」なんて言葉もできてしまっているが、原作のほうの年齢設定で「ピーターパン症候群」が起こるとすると、これは悲劇だ。「ボク、オトナになりたくないの」などという話以前の、小児自閉症が発症しているとしか思えない状況が発現することになる。それくらい、原作とディズニーのピーターパンは世界観が異なるのだ。

とはいえ、原作を異なる世界観で翻案しているだけ、ならそれほど腹立たしい気分にはならない。たとえば、もともとクレイジーな『不思議の国のアリス』のディズニーによるアニメ化は、アリス像を雨の多い国・イギリスの翳りある美少女から、まるで『ロリータ』もしくはジョンベネちゃんみたいなプレイメイト的美女の小型版に書き換えることで(あの蟲惑的な真っ赤なくちびる!)、「ドジスンもしアメリカでヒッピー世代のアニメ監督としてあらば」と思うほどのドラッギーな世界を実現している。

問題は、ディズニーが欧州産の児童文学をアニメにする場合、そこに込められた大人から子どもへのまなざしをばっさりと捨象することで、原作に漂うニュアンスを殺ぎ落とし、単純な「子ども世界万歳!」という作品に仕立ててしまうことなのだ。そこがわたしには、腹立たしく、おそろしい。

子どもは、少なくとも現実の子どもは、ピーターパンではないのだから、いつまでも子ども世界でバンザイをしているわけにはいかないのだ。だからこそ児童文学や、子どもが触れる子ども時代をテーマとした作品には、過ぎ去った子ども時代への、大人からの感傷・羨望・哀愁・郷愁といった大人からのまなざしが含まれていることが必要なのだ。子どもが、いつまでもこのままではいられない、ということを言葉ではなく、空気で感じるために。

ちなみに、わたしが中学以来、東京ディズニーランドに行かないのもそういう理由による。まだプーさんのハニー・ハントなんぞができるずっと前、一度だけ行ったそこは、まだ幼い弟ふたりのお守りを父と分担しながら周ったのでなければ、おそらくわたしには耐えがたい空間だったと思う。なにしろ、遊園地としてのそこの空気を満喫する状況になかったのに、ディズニーのアニメを見たときの居心地の悪さが、塩ビの膜のようにまとわりついてくるのだ。もちろん、中学生という微妙な年齢だけに、「ここには、子どもの世界そのものがあるよ、さあ楽しんで! そしていつでも帰ってきて!」というメッセージに、とりわけ反発を覚えたのかもしれないが。

で、それと「機動警察パトレイバー2 the Movie」がどう関係あるのかというと、この映画にも、その塩ビみたいな空気が描き出されているのだ。ただし、正面切って、批判的に。ここで描かれているそのまとわりついてくる空気は「現代の日本の中で戦争なんて起こるわけないじゃん」というものだ。

この映画が上映されたのは1993年だが、自分がふだん住んでいる街・東京がミサイルや電波妨害によるテロに合うという主題は、今の状況で見ると、ことさら、恐ろしい。映画冒頭での、東南アジア現地ゲリラへの射撃命令を待って無駄死にする自衛官たちの、今ならあまりにもタイムリーな場面は、恐怖の可能性への序章にすぎない。