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霊長類ヒト科アゲアシトリ属ジュウバコツツキ目の妄想多め日録

王子の内面を深く掘り下げて、白鳥を男性にした『Swan Lake』に刺激されて、クラシックなほうの『白鳥の湖』をまた見たい、と思っていたら、ちょうどお誘いがあって見に行くことができたことは、先月書いたが、クラシックなほうの「白鳥」もちゃんと見て思ったことは「チャイコフスキーはやっぱりすごい」というあまりに当たり前のことだった。だってあの、どんな演出にも耐え得る作品の強度は驚異的だ。『Swan Lake』はちなみに、一曲も端折ることなくチャイコフスキーの「白鳥」を全曲、使っている。ただし、演出上bpmは相当、速いものが多いけど。

ところで、この演出(というかイジリ)に耐え得る強度ということで思い出したのが、『不思議の国のアリス』だ。この作品は、主に子ども向けのかたちで多々、アレンジされてきたが、それでも元の作品の持つ不気味さ、とくに少女に対する視線に関するそれが、完全に払拭されるということはない。そういう点で、この作品は「児童文学」とは言い難い。

じゃあ児童文学の定義とはなにかといえば、先日も書きつけた『クマのプーさん』における著者の姿勢は、かなりティピカルなものだろう。すなわち、自分の中の子ども、子ども時代の自分のために書く、というやり方だ。しかし、「アリス」を書くドジスン先生の姿勢には、そういう点がない。彼は大人の女性を相手にできない、しかし自身は子どもではない男性のままで、作品の中で少女の動静を支配する。そこには子ども時代への大人の世界からの恣意的な介入がある。

「アリス」の世界は「プー」のように、子ども時代が大人の道具である言葉によって作られているのとは異なる。逆に、子どもが興味を持ちそうな言葉遊び=大人の道具によって、ドジスン先生という歪んだ大人の世界観=「気づいてみたらうたたねして見た夢でした」という物語に左右される世界、それが「アリス」だ。そこにはクリストファ・ロビンが「すぎかえる」と書いて留守にしなければいけない、年齢なりの発達や獲得すべき課題はなにもない。しかしそれは非難されるべきところではない。なにしろ、「アリス」は夢の話として語られているのだから。問題は、「夢の話だから」と、ある歪んだ大人の価値観満載の物語が、「児童文学」として捉えられることだ。

それでは、そんな「アリス」の世界を裏打ちする歪みを全開にしたらどうなるだろう? その見本のような作品が、シュヴァンクマイエルの『アリス』だ。この映画もまた、観たあとにオリジナルを読み返したくなるすばらしい演出の妙にあふれている。そして、原作としての強度という点では、『不思議の国のアリス』もまた、手強いということに気づかされる。この映画の中のアリスは、原作よりもさらに不機嫌で不愉快な状態に置かれ続けるわけだが、それらはシュヴァンクマイエルによるドジスン先生の翻案、あるいはその意図の正しい抽出なのだ。

なにしろこの作品の不快なのに衝撃的な時間は、すべて原作で思い当たるものばかり。そして、それを思えば原作の『不思議の国のアリス』が、ドジスン先生から少女への支配欲にまみれたラブレターであり、児童文学というカテゴリのものではないということが、再認識できるだろう。