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霊長類ヒト科アゲアシトリ属ジュウバコツツキ目の妄想多め日録

舞台もいいけど映画もね

冒頭。笑いでさんざめく客席が写されていく。よくまあここまで「昭和初期な顔」を集めたり粧ったなあ、とそれだけで魅了されてしまう、チャーミングなオープニング(映画『笑の大学』サイトで昭和初期な観客が笑ってるのが見聞きできます>http://warainodaigaku.nifty.com/)。とにかく上映中、笑いが映画館のそこここに絶えない。

意外にも稲垣メンバー好演

まあちょっとときおり滑舌が(笑)というのはともかくとして、オリジナルの舞台での配役はほんとにゴールデン・コンビだったのか? と考えさせられたほど。亡くなってしまったが、脚本家は『12人の優しい日本人』のときみたいな伊藤俊人でもハマったかも。

「笑い」をとことん追及する脚本家、という役柄には、稲垣メンバーの今回の演技のように、あふれでてくる愛嬌があったほうがいいよな、というのがその理由。映画が始まるまでは、あの話と脚本はあの配役での舞台がいちばん、と思っていたのにね。

役所広司もさいきん定着しつつあるイメージに、ちょっとした穴が開いて、いい意味で裏切られる演技。

ミイラ取りがミイラに

この物語のラストは、黄金色の菓子とその下の小判みたいに二重構造になっている。それを成立させているのはそれぞれ、主役二人の「ミイラ取りがミイラになる」シーン。

一つ目は、いつのまにか喜劇の脚本の改善に与するほど「笑い」に魅了される検閲官のシーン。二つ目は、一つ目の検閲官の態度につられ、武器としての「笑い」という信仰告白をする脚本家のシーン。

一つ目はほほえましく、しかし二つ目は恐ろしい結果を生み出す。まるで、『サウンド・オブ・ミュージック』で、長女の恋人が無邪気にもナチの制服に身を包んでいたときと、一家が音楽祭の会場から逃げるときに、彼が本気で一家に銃を向けるときのような鮮やかな対比。

お国とお肉とお久仁ちゃん

話もネタも決めゼリフも、舞台版でもう知っているのに、いや、知っているからこそ、泣ける。繰り返しの鑑賞に堪える脚本なのだと実感したのは、今回の映画もおなじ。
「死んでいいのは、お国のためじゃない、お肉のためだけだ!」

しかし、この話にこれだけ感情移入して泣ける、現在の情勢を思うと、複雑な気分ではある。