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霊長類ヒト科アゲアシトリ属ジュウバコツツキ目の妄想多め日録

ケーキを食べる、ということ

ケーキ食べたい! と、わたしは言う。人々も言う。しかしその時、われわれはケーキそのものを欲しているのか、ケーキを食べるという体験を欲しているのか、どちらなのか。

ケーキそのものを食べるということ。それはしっとりとやわらかなジェノワーズと、クレーム・シャンティの二重奏、あるいはパイのフィユタージュのシュー皮のビッグ・バンド的賑やかさとカスタード・クリームのおおらかさの組み合わせ、外はかりっと芯にしっとりとアーモンド・プードルの息づくタルトレットの上でのフルーツやフィリングの逢瀬に行き合い、向き合い、時には物理的にはこちらがあちらを食べているというのに、ケーキの中にシェフが偲ばせたなにものかに、こちらのたましいのどこかしらが食われるという至福に見舞われることである。

それでは、ケーキを食べるという体験とはなにか。それは、ケーキそのものを、ではなく、過去に限りなく積み重なったケーキを食した際の思い出を踏襲する行為である。そこでは、かつて洋菓子店で食したケーキで手練れのパティシエが放った挑戦は、スポンジが口中でとろけ、なめらかなクリームがフルーツの酸味をくるみこむ感触に溶かされ、ただ甘やかな思い出が反芻される。

よって、そこで求められる体験とは、やわらかな感触に溺れることであって、ケーキそのものと向き合う行為ではない。そこでは人は、ケーキを食べるという行為のイデアに浸っており、食されるケーキはそのイデアへの媒介者でしかない。この媒介者として使役されるのは、夜半、疲れた体で入り込んだコンビニの、蛍光灯のかがやく棚にまばらに並ぶカップスイーツやシュークリームたちである。

それらのコンビニ・スイーツと、洋菓子店のケーキ類との関係は、カップラーメンとラーメンの関係に似ている。代替物、あるいは媒介者としてのコンビニ・スイーツ、カップラーメンは、カロリーというリアルは備えているものの、体験としてのリアルは備えていないがために、そこには常に埋めがたい溝を照射するという役割を担うのである。これは具体的には、物理的に腹は満たされているにも関わらず、ケーキへの渇望が強まる、という事態である。

なお、ケーキを食べるという体験にはもうひとつ、このような物寂しいものとは対極のものがあるが、それはこのようなケーキに関するテキスト化も含む、「ケーキを巡る行為」とでも呼べるものである。

(続く、かも)