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霊長類ヒト科アゲアシトリ属ジュウバコツツキ目の妄想多め日録

死と乙女と怒りと

去ったり留まったり。

朝起きたら突然、のどがかんかんに痛く、鈍痛な頭痛、関節痛で体中にどんよりとした雲がかかったようで、「すわ、遅れに遅れたインフルエンザ発生か?」とおびえたけど、病院行ったら単なる風邪だった模様。

で、「花粉症の薬飲んでるので」と薬を渡して見せて言ってるにも関わらず、ゆったり話す女医さんが「風邪による鼻づまりで口を開いたまま寝ていませんか?」とか、風邪の薬を説明する段になって「花粉症でしたっけ?」とか言うので、「ええ、ですからさっき薬をお見せして。えーと、そのお薬は花粉症の薬と併用しても大丈夫ですか?」と聞いたりしつつ非常に焦った。

ちなみに花粉症の薬とバッティングしないようにした処方のせいか、風邪薬はいやに種類が多い。一種類の強い薬でどかんとやれないのだろう。

そんなこんなで薬もらって帰ってきてから、ながながと待たされた待合室(自分以外に4人くらいしか外来患者を見かけていないのに、11時前について12時半に開放された!)で思い巡らせていた、若くして先に死んだ人に対して勝手にこっちで怒っている、という自分の個人的な感覚について考えてみた。

この、他人の死に怒りを覚える、というのははたして正しいのだろうか。以前、同じことについて友だちが「あ、お疲れさん、って感じだな。バイトのシフト先に上がるやつに言うみたいな感じ」と言ったのを聞いてから、疑いを持っている。

それは、他人の人生のデザインについて、他人であるわたしが怒りを覚えるということは、正しいのか、傲慢不遜なのではないか、という疑いだ。

バイトのシフト説に倣えば、バイトの現場はおのおの自分で選んでいるように見えて、実は選ばされている人のほうが大半で、そんな現場でたまたま時間を共有する間柄のわたしが、そこでのバイト仲間のシフトに文句をつけることは果たして正当なのか、ということだ。

シフトによって、その現場を含む世界から永久にいなくなるのと、別の現場に個人の意思で移るのとは、人生のデザインの上であまり変わりはないとすれば、わたしのいる現場からいなくなるという一点に関して憤るのは、不遜なことなのではないか。

憤る、ということにはつまり、人生という苦行から足抜けすることへのある種の妬みがあるのではないか、とか、現場からいなくなる人が本来やるはずだった仕事が残されるのを目にすることへのやりきれなさがあるのではないか、と思う。

そして、袖触れ合うことで他生どころか今生の縁ができたのに、それを一方的に放棄して現場から上がる他人に対して、独善的な、やや乙女チックともいえる寂しさがある。

そう思うと、若くして先に死ぬ人に関しての怒りは、不遜なものなのではないかと思えてくるのだ。