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霊長類ヒト科アゲアシトリ属ジュウバコツツキ目の妄想多め日録

曾祖母とヴァイオリン

母方の曾祖母・Nが切り盛りしていた洋楽器店の話をしよう。当時、東京には洋楽器店といえば、この一店だけであったので、外遊する以外にヴァイオリンなどを手に入れるとなると、人々はここに品物を見に来ることが大半であった。そんなわけで、ほとんど店にいない主人・Tのかつての同輩や後輩である芸大の教授たちも、ここに買い物にやってくる。

新しいヴァイオリンというものは、ご存知の方は頷いてくださると思うが、なかなかすなおに言うことを聞いてくれない。それが店先で吊されていたものなら、なおさら音が出にくい。ところが、高い楽器ならこうしたヴァイオリンの“人見知り”が払拭できると考えるお客様もいるようで、試し弾きをした紳士が、「もうワンランク上のものを出してきてください」と、いうことが時々起こる。

すると、曾祖母は、「ようござんす。少々お待ち下さいませ、探して参りますので」と、言って試し弾きされたヴァイオリンを持って奥に引っ込み、タバコを一服つけてから、その同じヴァイオリンを持ってお店に戻り、紳士に手渡す。

紳士はもう一度、さきほどと同じヴァイオリンを弾き、「うむ、さきほどより余程、音の出がいい。こちらをいただきます」と、購入を決める。曾祖母は、さきほどよりワンランク上のものを持ってきたことになっているので、値段もそれなりに上乗せして売る。

おそらくはこれが、T洋楽器店が、あっという間に小さなビルを建てるほどまでに隆盛を極めた秘密のひとつであったと思う。ほかの秘密としては、グランドピアノ、アップライトピアノのボックスの中に、宝石を入れて密輸し、転売した、という噂もまことしやかに親族間でささやかれているが、これに関してはビルも楽器も裏帳簿もなにもかも、戦争で焼けてしまったので、いまとなっては証明のしようがない。