朧の森に棲む鬼@新橋演舞場
って誰の何の代弁者かわかりませんが、昨日は休憩30分挟んで4時間ものお芝居っていうか大芝居を見てつくづくとそう思った次第。
舞台は超有名なシェイクスピアの『マクベス』で始まったと思ったら、いつのまにか『リチャード三世』になっており、ときおり『タイタス・アンドロニカス』風味が少し利かせてある。これにソフォクレスの『オイディプス王』が練りこまれ、『コロノスのオイディプス』がふりかけられている。
これらの古典作品がむりやり混交されて、しかもそれらがうまく合体できずに消化不良な脚本になっているのと、おそらくそんな脚本を演じるジレンマから俳優がぜんぜんノってないせいで*1、お話のキモとなる言葉による呪いが、ヤマ場でセリフとしても仕掛けとしても機能を発揮していないという体たらく。
小屋は古典的な筋立ての泣かせる芝居なんかがよくかかる歴史ある劇場だったのだけど、「これって小屋ありきで、それにあわせて古典的なものをやろうとして超克できなかったってこと?」と思ってしまった。
でもさ、古典をわざわざ上演する意味って、伝統を守るとかなんとかの前に、辞書のclassicの項目を見ればわかるように、古典の「第一級の, 最高水準の, きわめて重要な.」ものをあらわすためでしょう。
じゃあ、古典のなにが「第一級」で「最高水準」で「きわめて重要」なのかといえば、人間があらわす業について特化して探求した結果が「第一級」なのであり、その結果を脚本として「最高水準」に練り上げてあるから「きわめて重要」であり、その普遍性の結果、現代まで生き残って上演され続けているわけで。
古典の持つそうした普遍性を、様式や型にまどわされずに表現することができなければ、古典を上演する意味はないとわたしは思う。なにしろ、古典だけにほとんどの観客は最初のシーンで、その後のストーリー展開はわかってしまうのだから。
昨日の芝居は、古典の悲劇としての型、筋立てという様式のみを、それも二つのまったく要因の異なる悲劇から取り入れようとして、現代特有の人間の精神状態をあらわすでもなく、古典があらわしてきた人間の業をあらわすでもない、中途半端なことになってしまっていた*2。
しかも、チケットにもチラシにも公式サイトにもどこにも、原案シェイクスピアとかソフォクレスとか書いてないんだぜ! 染五郎インタビューではちらほらと触れられているのに、なぜ? それとも3,000円もするパンフレットには書いてあったのだろうか?
そうだとしても、まったくナメ切った態度としかいいようがない。ハンパしてんじゃねぇよ。