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霊長類ヒト科アゲアシトリ属ジュウバコツツキ目の妄想多め日録

『not simple (IKKIコミックス)』

not simple (IKKIコミックス)
この物語は、いくつかの児童虐待の結果、その負の相乗効果の輪の中から出ることができないままのひとびとの閉塞感に満ちている。物語は孤独と悲惨を描くポール・オースターの作品の登場人物を、もう少しロウアーサイドにスライドし、もう少し悪意と不運を注入したかのような救いのなさだ。


この物語のなかのひとびとが、掛け違えたカーディガンのボタンのように行き違ってゆく不運と悲惨を前にすると、幼いころに親から理不尽に思える理由で叱られて抱いた「自分はきっとこのウチの子じゃないんだ」などという妄想が、いかに甘やかであったか痛感する。


普通の家庭で子どもが抱く「自分はこのウチの子じゃない」という妄想のなかの孤独はたいていの場合「やさしくて大金持ちのほんとうの親がいつか迎えにくる」という妄想とセットになっており、その妄想は「このウチを出て行っても自分の居場所が世界にはある」という自信に支えられており、その自信はそれまで親のかけてきた愛情によって裏打ちされている逆説的な関係となっている。


つまりは、妄想のなかで新しい世界に船出しても、そこはどこまでも親の掌の上なのだ。


しかし、この作品では主人公が船出するべき家庭の、親の愛情は、ほとんどない。かろうじて主人公がつながろうとする家庭的なものは、いつも掛け違えたボタンのように、手が届かない。そしてボタンの掛け違えた先にはたいてい、救いのない結果が待っている。


最後の一篇が、物語全体に充満する閉塞感に穴を開けるかと思いきや、これが主人公の悲惨な末路の発端になっているという堂々巡り。悲惨という名のウロボロス構造はここで閉じ、円環が完成する。あるいは、理不尽にも悲惨な人生を閉じるという意味では穴は開いたのかもしれないが。


このあまりにも救いのない物語に対し、画面はオノ ナツメがbasso名義で作品を描く時とは異なり、描線も展開も、ほとんど高野文子を思わせるほどシンプルに絞り込まれている。この計算しつくされた必要最小限さは、繰り返し読むたびに、あるいは行きつ戻りつ読むことで、物語の世界がさらに展開していくカタルシスを与えている。