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霊長類ヒト科アゲアシトリ属ジュウバコツツキ目の妄想多め日録

『崖の上のポニョ』

コンティニューvol.41

冒頭、クラシックっぽい曲に載って色とりどりのいきものが縦横無尽に動き回る海中の景色に、さんざんすすめられながらまだ見ていないディズニーの『ファンタジア』ってもしかしてこんな感じなのかしらと、水中ならではの完全無重力ではないふわふわ加減にトリップ。もうこの場面だけでもこの映画をスクリーンで見る意味があると感じます。そこでなにやら緩んだせいか、以降とにかくいろんなところが揺り動かされました。


本編に入れば、春に旅してきたばかりの瀬戸内海を濃厚に思い出させる、小島や対岸と穏やかな内海を望み海沿いに道を作れる立地に、クレヨンや色鉛筆で塗ったかのようなおうちや月、古生代に戻った生態系に、今となってはほとんど忘れ果てていた、『いやいやえん』や『ももいろのきりん』、『せいめいのれきし』とかの絵本や『ムギと王さま』の「金魚」を小さい頃に読んだときに覚えた情動(気持ちとか感想じゃなくて、そのころまだ覚えていなかった言葉以外のものでとらえたなにか)が収納されているところがいきなりぱっかーんと開いてしまい、悲しくも切なくもないのに(いや切なさはあったな。5歳児の性別どころか善悪も分かたれていない存在の仕方とか、「あー、幼稚園児がわたしに『ケッコンしようよ! なんで? ぼくといて楽しくない? 楽しいでしょ』ってプロポーズした時の気分ってこんな感じだったのか?」とか)涙がにじんできてびっくりです。


いやいやえん (福音館創作童話シリーズ) ももいろのきりん (福音館創作童話シリーズ) せいめいのれきし―地球上にせいめいがうまれたときからいままでのおはなし (大型絵本)


ポニョのお母さんが現れるとぱちもんのディズニープリンセスみたいなえーかげんな造形にもかかわらず、漂うそのただならないただならなさには、『天守物語』と『海神別荘』を読んだ時の中高生時分のため息を思い出したり。だってポニョと宗介のお母さん同士が立ち話してるとこなんて、富姫とお付きの侍女のシーンみたいじゃありませんか。あと、ポニョのお父さんの使い魔の目が錦絵とかに描かれた鯨の絵*1のそれだなあと断片的に思ったりとか。


それにしてもソースケはあのトシでいい男すぎるなあと思ったのだけど、よく考えたら大人より断然しがらみだのなんだのが少ないのだから、大事なもののために一直線になれるのは当たり前かもしれません。トンネルのシーンだって、大人同士のイザナミイザナギだと「お前、ほんとの姿はそんなだったのかよ!」「キィー! 見たわね! しかも逃げようとしてるわね!」となるところを、ソースケは変化し続けるポニョに対してただただ「ポニョが死んじゃう!」ということだけを心配することができるのですから。


それにしてもこれだけ書いても、この映画を言葉で説明するのはとってもむずかしい。どれだけ書いてもただの思いつきメモにしかならない! なにせ、いろいろと思い出すものが多すぎる上、その思い出にまつわる情動や感情も湧き出てきて、あとで言葉で説明できるような鑑賞体験にならなかったのです。わたしは大人なので知っているいろいろを思い出したり類推したりしてあのただならなさを幸か不幸かある程度消化できるけれども、近代的自我を獲得してお受験とかに立ち向かうことを期待されてる幼稚園児がこれを見たら… その小さな脳と、そこにまだ言葉で整理した形で認識されてない「語り得ぬもの」の充満した時空間に当てられて知恵熱出しちゃうんじゃないかな。もちろんわたしも類推はすれど、この「語り得ぬもの」たちのシャワーにかなり当てられ、上映後は足腰は妙に軽いのに、頭はプール授業や海水浴のあとみたいに重くなっていて「?」でした。


宮崎監督は年齢どおりまさに「還暦」し、かつ恍惚という名の老人性躁とでもいうべきもの(老人性の鬱というのはよく聞きますが)に入られたのではないかと思えてなりません。同じ映画監督でいうなら、鈴木清順ライクな狂気を獲得することで、この映画は作られたのではないかしら。