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ジョカン、ダライ・ラマ、『沈黙』

なぜダライ・ラマは重要なのか  雪の下の炎

さいきん、チベットについての日記を書いていませんでした。上記の本などは読んでいるのですが、行こうと思っていたチベット関連のイベントに、体調が優れず行けなかったことがあったほかに、いろいろと腹立たしいニュースが多かったからです*1


これに関しては、ダライ・ラマ法王日本代表部事務所の記事もお読みください。
http://www.tibethouse.jp/news_release/2009/090120_day.html


そしてまた最近のニュース*2…。

ジョカン(大昭)寺では、昨年の抗議行動後の取材ツアーで「チベットに自由はない」と記者団に訴えた僧侶が登場。「他の僧侶にそそのかされてやった。今は中国の法律を勉強した」と態度が一変していた。


このニュースを最初に読んだ時に思ったことは「ああ、逮捕されたあと思想改造されちゃったんだな」と、いうことでした。しかし、なにかが引っかかっていたのです。それは、箱の中に最後に残されたなにかのように。そして、思い出しました。2005年のダライ・ラマの言葉を。

最近、寺の僧侶や尼僧たちを中国政府が分離主義者として捕まえ、殴ったり、蹴ったりして、命を落とすことがあるようです。
ダライ・ラマを批判しなさい』とその時に言われますが、危険を冒す必要はありません。自分の命を賭す必要はありませんから、批判するときは、ぜひ批判しなさい。
チベット国内にいる人は、気持ちを率直に話す機会がありませんから、中国の言うなりに、言う通りにしなくてはなりません。
自分の命をさらしてまで、私を尊敬し、祈る必要は全くありません。


拷問を受けた場合、私を批判することで拷問が軽くなるなら、そうしなさい。
生きるためにはそれが一番、手っ取り早い方法です。その方が、私も嬉しいのです。
中国の言うことを聞くことが、かえって、良い結果につながることもあるでしょう。
僧や尼僧が私を批判せず尊敬したために、お寺から追放されることがあります。追放されるだけなら問題はないのですが、殴られたり蹴られたりして体に障害を受けたり、中には命を落とす人もいます。それは長い人生にとって本当に良くないことです。
中国の言うとおりに、笑顔を見せる時は笑顔を見せ、中国の機嫌を損なわないように、言う通りにすることが大切です。
批判するときは、ためらうことなく、私を批判してください。


どこかに「迫害を避けるためなら大いにわたしを否定しなさい」というようなダライ・ラマの言葉があったはず、と思って探したところ、チベット子供村の45周年記念行事で話されたスピーチ*3の一部でした。


ジョカンの僧侶は、自分の気持ちを殺してお寺の存続に賭けた、という可能性もあるかもしれません。国連人権理が中国政府に対して、少数民族保護、死刑廃止を求めて初の勧告を行ったというニュースもあります*4。まだ絶望するには早すぎるのではないでしょうか。


そんなことを考えていたら、この言葉に遠藤周作の『沈黙』を思い出し、先日の欧州議会ダライ・ラマが話された「第二の務め」*5に改めて思いを馳せています。

踏むがいい、お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。