『考えあう技術 −教育と社会を哲学する』
- 作者: 苅谷剛彦,西研
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2005/03/08
- メディア: 新書
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個性尊重教育と社会とのかかわりあいについて、うすらぼんやりと考え続けている身としては、個人と社会と自由についての関係性と可能性を示す、とても刺激的な本。もともと苅谷剛彦氏の教育についての論考は好きで読んでいるけれども、ほぼまるごと一冊、対談集というのは初めて。
示唆に満ちた本、というのはよく使われる言葉だが、この本は4年前に出版されたにもかかわらず、掛け値なしに示唆に満ち満ちている。抜書きしようとポストイットするとキリがなくなってしまうほど。
そんな中でも、目からウロコを振りまきつつも激しくヘドバンしたのはこのあたり↓でした。
苅谷「(前略)ぼくとしては『個人』と『自己』を区別して『個人』の力能を高めるという話を具体的に教育の理論のなかに持ち込みたいと思います。
これまでの教育の議論では、社会の一単位としての『個人』と、『自己(個性)』とが分節化されないまま論じられてきた。そのためにどんなに自分=自己を大切にしたって、そのことが無前提・無条件で主体的な個人や自由な個人をつくるわけではない。そこを教育の理念を立てる哲学とか思想という分野できちんと区別しておけばよかった。区別しないまま議論していたから『個性=個人』みたいになってしまった。」
苅谷「自由というのは相互批判を可能にする地平であり、同時にそのことを前提にして承認しあうことや、ルールをつくり変えることができるものです。(後略)」
西「(前略)ぼくらが議論してきたのは、ゲームに参加する力能なしには自由もありえないのではないか、ということでした。個性というのは内発的な開花だけではだめで、ゲームのなかでパート(役割)を担う、つまり他者との関係の中でゲームを営む力能をつけていくというように考えないといけない、という議論をしてきました。
選択の自由も快楽を求める自由も大切ですが、役割や責任を担うゲームへの参加ということを欠いてしまうと人は自由だと実感できないとすれば−そうぼくは考えているのですが−そこにどう連れて行くか、それがカナメになってきます。」
この本、子どもの教育にかかわるひとがみんな読んでくれたらいいのに! そしてこのふたりのように考えあってくれたらなあ。