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テンドルさんトークイベント

前日の日記Youtubeをリンクしつつお知らせしている、北京オリンピック聖火リレー通過に中国領エベレストで抗議した豪傑で、Students for a Free Tibet(SFT)ニューヨーク本部副代表のテンジン・ドルジェ(愛称:テンドル)さんが、エベレストでのプロテストについて語るトークイベントに行ってきました。

この日、会場の国立オリンピック記念青少年総合センターの広場では、鯉のぼりたちが元気よく泳いでいたのですが、テンドルさんの講演も、青空を泳ぐ鯉のぼりみたいにすがすがしい気分を感じさせてくれるものでした。

以下は講演の概要ですが、聞きながら自分でも判読できないくらい汚い字でとったメモをもとに起こしているので、細かいとこが抜けてたり間違っている可能性が大いにあります。悪しからず。

今日は集まってくれてありがとうございます。ぼくは日本に来るのははじめてで、ここにいることにとっても興奮しています。

ぼくはアメリカに10年住んでアメリカ国籍を取得して、2007年のプロテストのときはアメリカのパスポートでチベットに行きました。自分や自分の家族とか友だちは、ほとんどみんなチベット以外で生まれたり、チベットから亡命してきていて、そういうチベット以外に生まれたチベット人にとってチベットに戻ることじたいは大きな夢でとても特別なことでした。ここにいるみなさんはチベットに行ったことのある人もいると思いますが、ぼくもずっと、バイクに乗ってバックパッカーとしてチベットを3ヵ月とか6ヵ月とかかけて巡礼したいと思っていました。

2007年に聖火リレーのことを知って、チベット人としてなにかしなければと思ったんです。中国政府がこのことで、これまで50年圧制を敷いてきたチベットをさらに痛めつけることをどうかと思ったので。それで、デモを決意はしたけれど、決行すれば再訪はできないと思いました。なので巡礼は将来チベットが自由になったらにしようと思いました。

チベットに行くにはまず北京に入り、それから成都でアメリカ人のキルスティンという女性と落ち合ってチベットに入る許可を得ることにしました。成都は大都市で公害のせいで空はいつも曇ってました。申請に行ったら、明日の朝には許可が取れるので、今日は観光してきたらといわれ、その日は観光して、翌朝行くと、受付でキルスティンは許可が取れたんですが、ぼくはチベット人なのでだめだという。キルスティンは怒ってましたね。でも、なんとかチベットに入ろうと、旅行会社のツアーにもぐり込んで成都空港に行くことが出来ました。

飛行機が飛び立って20分ほどすると、やっと雲が晴れて山が見えてきました。それはもうほんとに美しくて、ここでやっと「チベットに来た」と実感しました。そして、ぼくは中国人がチベットを手に入れようとする気持ちがそのときわかりました。飛行機の左側にはヒマラヤが見えたんですが、同じ飛行機のなかの中国人は雪山を見たことがないらしく、ヒマラヤを見ようと窓の前で押し合いへし合いしてたんですよ。

で、そのときぼくは窓際に座って、その隣にキルスティン、その向こうの席に中国人の女性が座っていて、やっぱりヒマラヤを見たがってたんだけど、ぼくは自分の頭で窓をふさいで、なおかつ肘をついてさえぎってました。だって今回はチベット人のぼくが中国人にチベットへの入域許可をもらおうとしたわけだけど、ほんとは中国人がチベット人に入域許可をもらうべきなんですよ。

ラサのゴンカル空港について1時間半くらいバスに乗るとラサ市内に着きました。そしてポタラ宮殿を見に行ったんですが、それまで「はじめてポタラを見るとチベット人は必ず泣く」と聞いていたんですが、ぼくは泣かなかったんですよね。泣かずに全身に汗をかいてました。ぼくは泣くのが好きじゃない、エモーショナルになるのが好きじゃないんです。なので、このときの汗はこらえた涙が脇の下とかから出ちゃったんだと思います。

ラサには3日間滞在したんですが、その間、チベット人のいるエリアには行かないように、チベット人とは喋らないように配慮してました。というのはデモが終わったあとで、関わった人に迷惑がかからないようにです。しかし、はじめてチベットに入ったというのにチベット人と喋れないなんて、変な話ですよね。

2007年のラサはある意味非常に難しい状態でした。チベット人は中国人のしていることに怒っていて、しかもそれを隠すのではなくて表にあらわしていたんです。また、市場を牛耳っているのが誰なのかもはっきりしていました。チベット人は中国人の下で安い給料で働いていたんです。

ポタラ宮殿に入ってみた印象ですが、外と中はまったく違いました。外は壮麗なのに、中は悲しく、暗く、いろいろなものが朽ち果てていて、それはまるで大きな家の家主が、電気を全部消してとつぜん出て行ってしまったような感じでした。

そんな感じでラサでの滞在はあまり楽しいものではなかったので、早々にベースキャンプに向かいました。3日かかってベースキャンプに着くと、そこで入念に計画を練りました。ここからインターネットでプロテストの様子をニューヨークに送ることにしたんです。でもベースキャンプは寒すぎていろいろとうまく行きませんでした。ノートブックPCは起動しないし、バッテリーも凍るしで、お湯を沸かしてあたためてみたりしました。それでもうまく行くかはわかりませんでした。

でも、4月25日にプロテストをやることはゆずれないことでした。この日はパンチェン・ラマの18歳の誕生日だからです。その日は朝4時に起きて準備しました。当日、テントを出て山に登り始めると、ふつうは午前中は晴れていて午後は曇るのに、朝から曇っていて、やっとここまできたのに雲でエベレストが見えなかったらと心配になりました。普段は唱えないマントラをみんなといっしょになって唱えました。すると不思議なことに、ベースキャンプに着く4分前に雲が流れ去って、プロテストの予定時間には完璧に晴れたんです。心配していたノートブックPCやバッテリーも動きました。その状況はまるで、ぼくたち自身がいろいろ準備していたのに、他の人がセッティングしてくれたかのようでした。

プロテストは20〜25分続いて、そのあと公安に拘束されてカメラやPCを押収されたんですが、彼らは映像がそのときすでにニューヨークに送られたあとだとは気付きませんでした。やってきた警官には中国人もチベット人もいましたが、プロテストのメンバーはぼく1人だけがチベット人でした。そこで警官はぼくだけに中国語とかチベット語で怒ってきたんですが、ぼくは今回は英語しか話さないことにしていました。ぼくが英語で話して、アメリカのパスポートを見せると、彼らは急に怒るのをやめて丁寧な態度になりました。

その後、ベースキャンプそばのレンガ造りの建物に丸一日拘束されました。はじめは全員一緒で、誰が計画したのかとか、誰が手助けをしたのかを何度も聞かれました。彼らはぼくたちのプロテストにすごくショックを受けてましたね。

数時間後に今度はメンバー全員が別々に1人ずつ、隣の部屋に呼ばれていきました。30分ずつの尋問だったんですが、戻ってきた男性メンバーは大丈夫そうで、殴られたり暴行されたような感じはありませんでした。ぼくが呼ばれていくと、その部屋には痩せた男の子がマシンガンを持っていたんですが、使い方も知らないようだったので怖くはなかったです。

尋問は一日に何度もありました。ところで公安は自分たちの署では決定権がないんです。たとえばシガツェ→ラサ→北京という感じでお伺いを立てて、その返事が来たらそれをもとに行動するという感じなので、水やたばこを与える決定もその調子で1件につき4時間くらいかかりました。決定に時間がかかりすぎるので、けっきょく一日なにも食べられませんでした。なにしろトイレに行くのも4〜5人が見張りについてくる有様でした。

そうこうするうちに夜の8時にランドローバー1台に1人ずつ、警官つきで乗せられてシガツェに連れて行かれました。2〜3時間ごとにいろいろなところに停まったんですが、駐車場にトレンチコートの男が必ずいて、それがナチのゲシュタポみたいで、どこかに連れて行かれないか不安でした。

翌朝シガツェに着いてようやく食事ができることになりました。というのも、そのときにはもうプロテストの映像がYoutubeとかに公開されているのが中国当局にもわかっていて、ぼくらを厳罰に処すことで国際問題に発展するのを恐れていたみたいです。それで政府はぼくらに厳しい扱いをしないことに決定していたんですね。

で、そこには信じられないくらいたくさん食事が用意してあって、とはいえ24時間食べていないわけですからそんなに急に食べられないわけですよ。なんだけど、とにかく食べろ、食べてくれ、と。で、ようやく食べ始めたらいっせいにカメラが向けられました。その朝食のあとも尋問はありました。2日間のあいだ、同じ質問ばかりで、誰が計画したのかとか、横断幕の中国語は誰が書いたのかとか。

白人男性のメンバーはあんまりしつこいので「横断幕の中国語はラサの大きな中国人が書いた」と適当を言ったら、次の日、公安はラサに大きな中国人を探しに行きましたよ。

ところでぼくの心配は別のところにありました。40時間連続で尋問されていたので眠かったんですが、チベット語を使わないでいようと思っていたので、眠ってしまうと母語であるチベット語でなにか言ってしまったり、眠くてぼーっとしているときにチベット語でなにか言われて答えてしまったらどうしようということです。

本土のほかのチベット人は同じころ、デモをして投獄されたり拷問されたり、そして殺されたりしていましたが、ぼくたちはパスポートがあったので、そう長期間は収監されないと思っていました。結局、3日間の尋問のあと、チベット国境からネパールに入ったんですが、そのときはほんとにほっとしてリラックスしましたね。友だちや仲間も迎えに来てましたし。2007年のあのプロテストがうまく行ったのは、綿密な計画と多くのサポートのおかげでした。

カトマンズに行く途中、チベットで見たことから、中国政府の本質について考えていました。彼らは外には規律正しいところと力強さを見せたがりますが、実際にチベットで見たのはそれとは違う姿でした。ぼくの見たのは賄賂の横行や効率の悪さです。官僚的で、時間がかかりすぎる。政府で働いている人間はみんな、最も無知で、賄賂にまみれているように感じられました。

無知というのは、この時代、インターネットが使えるのは当たり前なのに、チベットや中国では検閲が激しい。チベット人を無知にするための検閲が、中国人自身をも無知にしているんです。

プロテストではぼくはチベット語もしゃべっていたんですが、尋問している人たちもPCが検閲されていて、かつインターネットリテラシーがないために、プロテストがすでに世界に向けて公開されていることを北京からの情報で知ったくらいです。

こんなふうに、中国の統治は無知をベースに行われています。そこでは検閲や悪政、拷問が横行しています。でも、こんなことは長くは続きません。砂の上に家を建てているようなものです。チベットの圧制も同じで、長くは続かないでしょう。

チベット人を含む多くの人は、中国は強大で、チベットが自由になることなんてないんじゃないかと思っていますが、ぼくはそうは思いません。ぼくは直にチベットと中国を見たからそう思うんです。

1つは、チベットは旅行にはいいところですが、高地に順応して進化してきたチベット人以外の、一般の中国人が住むには適さないということです。中国人も出産の際は低地に戻ります。そのままチベットで出産すると、いろいろと問題があると聞いています。

2つ目は、国家と帝国との違いです。中国は帝国かもしれませんが、国家ではありません。帝国というものの本質は、発展して崩壊するものです。帝国は50年、長くて200年で崩壊しています。ローマ帝国モンゴル帝国、みんなそうです。中華人民共和国は成立して50年、すでにピークを迎えつつあります。

そして、最も大事なのは、非暴力という方法をぼくたちが採っていることです。みんな中国のほうがテクノロジーや軍事力で勝っているので勝てないと思っているんじゃないかと思いますが、これは非暴力と暴力のたたかいなんです。そして、中国政府は非暴力とのたたかい方を知らない。

ですから、チベットはこのことで必ず勝つと思いますし、歴史を変えることができると考えています。

チベットには大河の源流があり、20億人に影響を及ぼすことができます。気候変動にも影響を与えます。このようなチベットをサポートすることはまた、古来から続く仏教文明を守ることでもあります。仏教徒はいろいろな国にいます。スリランカ、タイ、ビルマベトナム、そして日本。しかし、実際に仏教を学べる国はそう多くはありません。

ぼくは仏教哲学にはくわしくありませんが、仏教で大事なのは壮麗な伽藍ではなくて、その教えです。チベットにはこれが遺されているのですが、消えそうになっています。チベットをサポートすることは、この文明を守ることにもつながります。

すべての人が仏教に興味があるとは思いませんが、平和にはみな興味があると思います。平和がきらいという人はいないでしょう? チベット・サポーターは世界平和にも貢献しているんです。暴力に非暴力で立ち向かう、このことが成功すれば、世界の価値観が変わります。紛争地域でもこの方法が採用されるかもしれないのです。非暴力にはパワーはないと思われていますが、ぼくたちはこの方法を続けたいと思っています。

今日はSFTJのツェリンさんや、そして名前を全部あげられないほど大勢のスタッフのみなさん、集まってくださった方々に、チベット人を代表して、特に本土で自分で声をあげられない人たちの代わりにお礼を申し上げます。

みなさんは自分のためには何の利益にもならないのに、こうした活動を手伝ってくれ、時間を割いて話を聞きに来てくださいました。アメリカがクウェートに侵攻したりしたのは(世界の正義のためとかではなく)石油が欲しいという利益のためです。でも、みなさんの、何の利益にもならないのに、それを省みず協力するということは、人間にしかできないことです。これが人間と動物とを区別する部分なのです。

今日はどうもありがとうございました。ぜひSFTJ*1のMLなどに参加してください。くわしくはツェリンさんあたりから説明があると思います。

自分の字が汚いので、字を書くのは嫌いなんですが、テンドルさんの話が面白くて、気付いたら必死にメモをとってました。

トークイベントには、もしかして前日に早稲田の石濱先生の授業*2でテンドルさんのお話を聞いたのかな、と思われる学生さんも来ていたリして、ああ、この人もテンドルさんのすがすがしさに魅了されたのかなー、などと思ったり。

なお、メモに夢中でテンドルさんの写真を撮るのを忘れました。ので、今年の、チベット正月をボイコットして祝わない、という非暴力抵抗運動について語るテンドルさんのYoutubeをどうぞ。「声を挙げない、なにもしない、という抗議に中国政府は慣れていないんです。これからもこうしたプロテストを仕掛けていくつもりです」というテンドルさんの不敵な感じは、ちょっとスパイク・スピーゲルみたいです。


ちなみにこの日は清志郎の葬儀、じゃなくて清志郎青山ロックンロールショーだったわけですが、「行きたかったなあ」と思いつつオリンピックセンターに少し早めについたので、木陰で横になってたら、チベタン・フリーダムを叫んでた清志郎とか(1999年でしたっけ)、「イマジン」を清志郎訳で歌うとことかが蘇ってきたりしました。

ずっとステージの上だったのが、雲の上っていうステージに行っただけだから、さよならは言わないけど、ありがとうはこれからも言うんだろうな。