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『sylvie guillem ON THE EDGE / SUR LE FIL』

帰宅して誕生日プレゼントにいただいたDVDの1つを観る。こちらもドキュメンタリーで、セリフでの状況説明はないけれど、構成が練られているので説明的なセリフなしでも制作者の狙いはわかるようになっている。


パリ・オペラ座のすべて』は撮影対象がめまぐるしく変わるかと思えば延々舞台風景が続いたりと、構成がよくないように思う。芸術監督が喋るところが何度も映されるのだが、だからといってオペラ座の経営の難しさを語るというところまでは行かないし、オペラ座運営に携わるさまざまな人たちが細切れに映されるけど、細切れすぎて「このようにさまざまな人たちによってオペラ座は支えられています」というところまで行かないし。


で、ギエムのドキュメンタリーだが、本編はごく最近、アクラム・カーンやラッセル・マリファントと作品を作り上げていく過程が映される。白鳥の湖東京文化会館で踊るシーン、東京観光や陶芸を習いに行っているシーン、昨年のベルサイユの池に張られたステージ上でのボレロなどの映像もある。さらにおまけとして主に90年代後半からのクラシックを踊るギエムの練習&リハ(ゲネプロっぽいのもあり)風景がついていて、かなりお得な一枚だと思う。ただ、一部は映像が劣化しすぎていて「これをわざわざ入れる意味は?」と思うものもあるのだが。


ところで冒頭、東京バレエ団の白鳥たちに混じってギエムが踊るシーンがあるのだが、ここでは『パリ・オペラ座のすべて』で見たばかりのオペラ座のコール・ドのレベルの高さを認識せざるをえなかった。なんというか、緊張感がまったくちがうのだ。演目、そして格が違うとはいえ、『パリ・オペラ座のすべて』でのコール・ドの練習風景の全員の脚の高さ、腕の曲線具合の揃い方に遠く及ばない。とはいえオペラ座のコール・ドもよく見ると脚が揃っていても腕の動きがいまいち揃ってなかったりもするのだが(上の項目の動画の1:14〜)、全体としてそう思わせない出来なのだ。そういう意味で、やはり昨日の映画は記録映像としては意味があると思う。


以前、吉田都のインタビューで「鏡やビデオで自分のダンスをチェックして、パートナーとミリ単位でよりよいかたちに調整していきます」と言っていたのを読んで、「…ミリ単位」とあらためてトップダンサーの凄さを思い知ったのだが、東京バレエ団のコール・ドにはそういう緊張感、客観性が足りないように思う。舞台を生で見ている時にも感じることだが、コール・ドだけでなくプリマのはずの上野水香などでも、ポーズとポーズの間でなぜか緊張感が切れるというか、役柄からダンサー本人に戻ってしまうダンサーが多い。それも女性に。バレエ人口は女性のほうが圧倒的に多いと思うのだが、そこから選抜されてきた彼女たちがこうなってしまうのはなぜなのか。この記録映像では(ハイライトということもあるのかもしれないが)そういうふうには見えないのだが。


ちなみにこのギエムのドキュメンタリーには、ボレロを踊る東京バレエ団の男性ダンサーたちも登場するが、彼らに関してはこの映像でも、また舞台でも、そう感じることはない。人数比だけでいえば、男性ダンサーのほうが競争率が低いはずなのだが…


そういえば、ボレロベジャールのほかの演目での上野水香は、クラシックのときのようにポーズとポーズの間で素に戻ることはなかったような気が。演目の問題? いや、演目がなんであれ、ステージに上がっている間じゅうの緊張感が続かないのはいただけないけれど。