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霊長類ヒト科アゲアシトリ属ジュウバコツツキ目の妄想多め日録

マニュエル・ルグリの新しき世界@ゆうぽうと


Bプロ*1を見に五反田へ。以下、感想を印象深かったもののみ。


ゆうぽうとに着いてみたらフリーデマン・フォーゲルがリハーサル中に首を痛めたとのことで、3演目踊るところ、1演目になっていて、がっかり。


が、その1演目は素晴らしかったです。フォーゲル自身が楽器や楽器に向き合う奏者や煽る指揮者、そして音楽そのもののように震え、弾けつづける「モペイ」。コントラバスの弦のように震え、ティンパニの皮のように弾み、バグパイプの袋のように凹凸し、スネアを叩くスティックのように跳び、変化し続ける。伴奏はクラシカルな弦楽器(四重奏かな?)なのですが、踊るフォーゲルがそれ以外にも多様な「音」としかいえないものを踊りつづけるので、視覚と聴覚が混乱してイイ意味で脳内がお花畑状態に。首を痛めててなぜそれが踊れるの? と思わざるをえない、踊素に満ち満ちたステージでしたが、人と組む際にリフトなどでかかる他人の体重という負荷はちょっと、という状態だったのかもそれません。



第一部のトリはルグリとギエムで「優しい嘘」。オルフェとユーリディス、日本神話でいえば黄泉比良坂の事件に材を取っているからか、それともキリアン作品だからなのか、ゆったりと流れるグレゴリオ聖歌のなか、ぴりぴりとした緊張感を感じる作品。25年ぶりのペアとは思えないほどのびしっと拮抗しあうふたりの一体感によるものでしょう。お互い外部要因のみで引き裂かれてしまうオルフェとはちがい、黄泉比良坂の事件が題材だと女性が怖すぎて、「ぴりぴり」どころじゃなくなってしまう気がしますが…。


第二部最初の「マリー・アントワネット」、つくりは宝塚の「シシー」と同様ということなのかなあ、と思って見ていました。シースルーの衣装からパトリック・ド・バナのタトゥーが透けて見えて、どきっとしたり。


次のヘレナ・マーティンの「ハロ」は、ストールを小道具として使っているのもあるけれど、一人でのステージ空間の支配力がもの凄かった。


一緒に見に行った人は第二部の男同士の倒錯的でエロエロなパ・ド・ドゥ「失われた時を求めて」の“モレルとサン・ルー”に垂涎のよう。これはいちばんエロティックな作品でした。よしながふみのBLものとかも好きな彼にはそうとうツボだったらしい。というか男女の愛のパ・ド・ドゥはバレエ・フェスでたくさん見すぎたので、男同士のパ・ド・ドゥが新鮮なのだとか。↓こちらは違うペアでの“モレルとサン・ルー”



ルグリとギエムの「三人姉妹」で最後。第一部のふたりの演目とがらりとちがって暑苦しいほどエネルギッシュなルグリの軍人さんに、苦悩しながらも拒絶するギエムのマーシャ、という図ですが、こんなふうにルグリと踊るギエムを見ていると、「コンテンポラリーばっかりじゃなくてドン・キとかのクラシックもまた踊って欲しい!」と思ってしまいます。今回、クラシック作品のパ・ド・ドゥではなかったにもかかわらず。


ところでバレエ・フェスのときもピアノ伴奏は感心しなかったけど、今回は輪をかけて酷かった! 第二部最後、おおトリの「三人姉妹」などはルグリとギエムだから台無しにならなかったんじゃないかと思うほど。どんなふうに酷いかというと、第一部「アザー・ダンス」では左手で弾く一音の上に乗り切るはずの右手のトリルが乗り切らずずっこけたりとかで、連れの人いわく「なんであんなノコギリ引いてるみたいにガタガタ…」。テープ録音にしてくれたほうが安心して見られるレベルでした。


安心して見られない、といえば、もう一点。期待もしていなかったけれど、安心して見てられないうえに、暗転した舞台から、小道具作りで金槌使ってるのか? というような音高き退場をする日本人ダンサーが一人。もちろんそんな音を響かせてたのは彼女だけ。演目、とくにモダンなどではよいステージもあるのですが、今回はちょっと…。バレエフェスの際も思いましたが、抱き合わせ販売みたいなこれはどうにかならないのでしょうか。