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霊長類ヒト科アゲアシトリ属ジュウバコツツキ目の妄想多め日録

『虐殺器官』

SF小説を読む、ということがさいきん、めっきり少なくなっていた。SFアニメは見るし、SFマンガは読むのに、なんでだろうと自分でも思っていたが、この小説を読んで、その理由がわかった。それは、アニメやマンガに比肩するほどのテクニックを備えて面白いSF小説に、さいきんめぐり合っていなかったからだ。そして、SFという題材で、アニメやマンガの言語+視聴覚という表現方法に拮抗できるような小説技法って、分が悪いよな、ともおもった。


さて、読み始めてすぐ、「押井守系作品のファンなら」と薦められた意味がわかった。攻殻のように過去の名作コンテンツからの引用が、衒学的すぎず作品を成立させるに欠かせないパーツとして散りばめられている。ネットでものを読むことに慣れてきている目には、あるシーンを読むことで過去のコンテンツを想起させられるよりは、最初からそのシーンにそれなりの引用がされているほうが心地よいんじゃないだろうか(少なくともわたしはそう感じた)。もちろん想起させられるものもいろいろある。いとうせいこうの『解体屋外伝』は、浅田寅ヲによってコミカライズされている最中というのもあり、近しいものに思える。

  
 


もう一つはパトレイバーシリーズのあの映画のあの会話の内実を、もっとリアルに、そしてシビアに展開しているように思える流れだ。その会話というのはもちろん、こちら。ちょっと長いが途上国の紛争についていまだに有効な文章だと思うので、引用してみる。

荒川「戦争だって? そんなものとはとっくに始まってるさ。問題なのはいかにケリを付けるか、それだけだ。後藤さん、警察官として、自衛官として、俺達が守ろうとしているものってのは何なんだろうな。前の戦争から半世紀。俺もあんたも生まれてこの方、戦争なんてものは経験せずに生きてきた。平和。俺達が守るべき平和。だがこの国のこの街の平和とは一体何だ? かつての総力戦とその敗北、米軍の占領政策、ついこの間まで続いていた核抑止による冷戦とその代理戦争。そして今も世界の大半で繰り返されている内戦、民族衝突、武力紛争。そういった無数の戦争によって合成され支えられてきた、血塗れの経済的繁栄。それが俺達の平和の中身だ。戦争への恐怖に基づくなりふり構わぬ平和。正当な代価を余所の国の戦争で支払い、その事から目を逸らし続ける不正義の平和」

後藤「そんなキナ臭い平和でも、それを守るのが俺達の仕事さ。不正義の平和だろうと、正義の戦争より余程ましだ」

荒川「あんたが正義の戦争を嫌うのはよく分かるよ。かつてそれを口にした連中にろくな奴はいなかったし、その口車に乗って酷い目にあった人間のリストで歴史の図書館は一杯だからな。だがあんたは知ってる筈だ。正義の戦争と不正義の平和の差はそう明瞭なものじゃない。平和という言葉が嘘吐き達の正義になってから、俺達は俺達の平和を信じることができずにいるんだ。戦争が平和を生むように、平和もまた戦争を生む。単に戦争でないというだけの消極的で空疎な平和は、いずれ実体としての戦争によって埋め合わされる。そう思ったことはないか? その成果だけはしっかりと受け取っておきながらモニターの向こうに戦争を押し込め、ここが戦線の単なる後方に過ぎないことを忘れる。いや、忘れた振りをし続ける。そんな欺瞞を続けていれば、いずれは大きな罰が下されると」

後藤「罰? 誰が下すんだ。神様か?」

荒川「この街では誰もが神様みたいなもんさ。いながらにしてその目で見、その手で触れることのできぬあらゆる現実を知る。何一つしない神様だ。神がやらなきゃ人がやる。いずれ分かるさ。俺達が奴に追い付けなければな」


後藤は日本の警察官として、「不正義の平和」を守ろうとする。が、荒川とのこの会話後、後藤は同僚の南雲にこうも言う。

「ねぇ、落ち着いて考えてごらんよ。今俺たちが何をするべきなのか、それぞれの持ち場で何かしなくちゃ、何かしよう、その結果が状況をここまで悪化させた。そうは思わないか?」


後藤が職務上、平和を守ろうとすることは、ある状況下では「それぞれの持ち場で何かしなくちゃ、何かしよう、その結果が状況をここまで悪化」させる一助にもなりうる。そのジレンマを、『虐殺器官』はあるひとつのやりかたで昇華したのでは、と思えた。それはとても悲劇的なかたちでの「とっくに始まっている戦争のケリのつけ方」だけれど。


さて、押井守は『虐殺器官』を読んだだろうか。感想を知りたいな。というか、できれば対談を読んだり聞いたり(226イベントとかで)したかった。残念ながら、それはもうかなわないことだけれど。