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『野生の科学』『洞窟のなかの心』刊行記念対談:中沢新一 (明治大学野生の科学研究所) × 港千尋 (多摩美術大学教授)「ホモサピエンスの起源と未来を探る」@青山ブックセンター

以下はわたしの琴線に触れたとこだけの聴講メモなので、その他のウェブの報告と補完してお読みください。なお、「---」は本題から少々逸脱したこぼれ話部分。メモを書き起こした今、積読本に手をつけねばと強く思っています。

中沢新一港千尋のかかわりについて

1930年代にあった『ドルメン』という雑誌(岡書院で刊行していた人類学(民族・民俗学)・考古学専門誌。岡書院の廃業とともに4巻8号で停刊していたが、各方面から再刊の要望が強く、友人の書店主の協力を得て1938年(昭和13年)復刊。岡が陸軍の召集に応召するまで9巻を発行)を二人で復刊しようとしたことがあった。

復刊は頓挫したが、その過程から中沢氏は人類最古の哲学 カイエ・ソバージュ(1) (講談社選書メチエ)のシリーズを、港氏は『洞窟へ―心とイメージのアルケオロジー』を作成するに至る。

 

【追記】中沢氏曰く、「考古学だけに留まらない、いろいろな分野を含む『ドルメン』みたいな「サロン」が今はない」(ちなみに「ドルメン」とは支石墓(しせきぼ)ともいい、新石器時代から初期金属器時代にかけ世界各地で造られた巨石墓の一種。ブルトン語でdolはテーブル、menは石を意味し、大きく扁平な1枚の天井石を数個の塊石で支えた形がテーブルのように見えることからこのように呼ばれた。日本にも宮古島熊野古道その他に存在する)。

 

---長野県の富士見(縄文関連が有名なのは塩尻のほうだが?)の縄文遺跡や周辺の縄文学者を二人で訪ねたり。その途中で港氏が「こっちの道じゃないんじゃないんですか?」というも、中沢氏が「大丈夫だよ、ぼく知ってるんだから」と言って進んだら雪に降り込められてひどい目に遭ったりなどのこぼれ話。港氏はそれ以前に静岡の丘陵地帯でも中沢氏に着いていって二人で迷子になった経験があり、「この人についてくとひどい目に遭う」とのぼやき。対して中沢氏、「そういう時にこそ日常で出会えないものにいろいろ出会えるじゃない」と強弁。---

 

◆洞窟とのかかわり

ラスコーの洞窟のあるフランス・ドルドーニュの町に、中沢氏、港氏は湾岸戦争のころ、まったく別の経路で訪れていた。中沢氏はチベット仏教の先生を訪ねて、知らずに駅に降りたら町の説明があり、ラスコーの洞窟の町だと気付いた。

 

---この訪問はチベット仏教に帰依したイギリス人の発明家の富豪が持っていたドルドーニュのシャトーを、中沢氏の先生とそのお弟子さんたちの亡命場所として譲られたため。しかし中沢氏の先生は、フランス人について「彼らはガチョウを太らせてその肝臓を食べるというひどいことをしていて、何度言ってもやめてくれない」と悲嘆に暮れていたという(注:中沢氏はほら話がうまいのでこれは話半分に聞いておいたほうが良いかもしれません。ありそうなことではあるけれど・笑) 。---

 

チベット人は洞窟で修行をするので、ガチョウのことはともかくとして、洞窟のあることにはこの町のことを気に入っていたとのこと。中沢氏は、旧石器時代の壁画と、チベット人の修行の方法に深いつながりがあるのではないかと考える。そこには、人間の「認識」の根源、二つの意味合いを重ね合わせられるようになったことの共通点があるのでは、と。

 

ヘーゲルの排除したアフリカ的段階がそれであって、こうした人間の「認識」を組み込んで人間に関する学問(哲学、考古学。人類学、教育その他)を組み替える必要があるといったのが吉本隆明。『野生の科学』もこれを主題にしているとのこと(時間と気力体力がなくて今回、読まずに対談聞いてます)。

 

◆『洞窟のなかの心』の著者と洞窟(港氏の報告)

デヴィッド・ルイス-ウィリアムズはケープタウン生まれで、フランスや南ドイツなどの北半球の洞窟の旧石器絵画研究に対して、ずっとアフリカの岩に描かれた旧石器絵画を研究していた(アフリカでは洞窟がほとんどなく岩に類似の絵画が描かれていたため)。

 

彼はラスコーの洞窟絵画を見る前から、「これらはスケッチではなく、旧石器人の脳の中のプロセスが岩の上に外在したもの」という意見を持っていた。北半球の旧石器絵画の研究では、研究する現代と旧石器時代を切り離して考えていたが、ウィリアムズはそのように分けて考えていなかった。その彼がラスコーを訪れた時に、彼が模写してきたアフリカの岩絵とそっくりなことに驚く。

 

【追記】港氏曰く、「クロマニヨン人のクロマニヨンは、マニヨン氏のクロ(穴)という意味」。また、旧石器絵画のある洞窟はヨーロッパでは旧石器時代の春夏にはステップ地帯となって歩いて行き来できた広範囲のフランス、南ドイツ、東欧(ボスニアその他)などに存在するとのこと。

 

サイケデリック・カルチャーの影響

1960~70年代は言語の下にある意識をLSDなどで引き出し、拡張・変容させる実験がハーバードなど大学でも行われていた。この実験で描かれた絵が、アマゾンの原住民の絵や、チベット死者の書で死後の意識変容に伴う光の描写に似ていることが話題になる(集合的無意識につながる話ですね)。

 

ここでの意識変容では次の三段階が主に見られた。

(1)入眠時や偏頭痛時に見られる光など

(2)もう少し具体的な、それぞれの社会に属する動物:アマゾンならジャガー、アフリカではエランド(鹿)など

(3)意識変容(日本語での「ラリる」状態)が起こり、動物と人間の交換が起こる

 

→ウィリアムズの持論はこうした時勢も関係していたのでは?とのこと。なお、ラスコーや南ドイツの洞窟の奥のほうの絵画では、頭が動物、体が人間の絵画があるとのこと。

 

言語学へのカウンターとしてのドゥルーズガタリ

人間の思考はすべて言語学で解明できるというのが旧来の言語学の思想だったが、G・ドゥルーズ、F・ガタリは「人間の意識は言語ではキャプチャー(捕捉)仕切れない」との立場から『千のプラトー―資本主義と分裂症』を書く(新訳版、積読状態です…)。

 

→人間を考えるにはむしろ動物を考えないといけないのでは?とのこと。

 

ギリシャ哲学も「洞窟」から生まれた

プラトンの有名な洞窟の比喩は結局のところ、「人は見たものを脳内で再構成して認識している」とも言える。なお、このころのギリシャでは洞窟でオルフェウス教団などが祭祀を行っており、洞窟というのは突飛な比喩ではなかったと思われる。また、オルフェウスの冥界降りの話から、「死に対抗できるのは音楽だけ」という話も出る。

 

ギリシャ哲学はアフリカ(エジプトなど)、アジア(インドなど)にも由来があるということが明らかにされていない。ギリシャ彫刻は白いものと考えられがちだが、実際はインドの神像のように彩色されていた。

 

ニーチェギリシャ悲劇の中の非ギリシャ的なもの、もっと根源的なものの存在を指摘したように、ギリシャの根底にはアフリカとアジア(の旧石器時代からの潮流)がある。エジプト文明以前のナイル流域に何があったのかも、現在、旧石器時代以降の岩絵が残っており、研究されつつあるとのこと(フロイトニーチェと同じように、隠されたものの痕跡からなにかを探り出す天才、という話。そういえばキーラ・ナイトレイの出るフロイトの映画、そろそろ公開ですね)。

 

◆ヨーロッパの言語とアフリカ的なもの

言語にアフリカ的なものが残っているのは英語、ドイツ語が多い。フランス語はローマ的なものから累々と積み上げられてしまって、隠されている。

日本文化は古代的なものが埋葬されずに残っている。こういうものは韓国にも中国にもない。ヨーロッパの都市論はローマからだけど、知りたいのはそのローマの石畳の下なのだが、『アースダイバー』で触れた日本の都市は、その石畳の下が露呈している。

いうなればヨーロッパには廃墟があるけど、日本には廃墟ではなく、豊かな瓦礫がある。中沢氏曰く、「旧石器時代の瓦礫を日常生活の中で見られるのが、この国に生きる喜びかな」。

 

【追記】旧石器絵画の評価方法についての対話:港氏「ラスコーの洞窟がもしフランスじゃなくイタリアで発見されたらどう評価されたでしょうね?」、中沢氏「イタリア人なら『イタリアンルネサンスはすでにここに実現されていた』って言うでしょうね」、港氏「見る国民性、民族によってあれはそうとう評価が変わりますよね。日本だったらどうだったでしょうね?」、中沢氏「にほん、うーん、日本は…。ああいう古いものないからなあ」(そこで岡本太郎と縄文の話にはならないのかー、とちょっと残念)。

 

旧石器時代の最古の楽器(港氏の報告)

南ドイツの洞窟で発見された、旧石器時代の最古の楽器はフルートだった。材料は鷲の翼の骨。この楽器が復元されて、生きている鷲の前で演奏する、というイベントがあった。しかし、鷲は反応しない。最後に演奏者が強く吹いて、高音域を越えて犬笛のような状態になったときに鷲が翼を広げて飛び立とうとしたように見えた。

---中沢氏「飽きちゃったんじゃないの?」。港氏「うう(がっくり)」---

港氏曰く、音楽を人間に教えたのは鳥なのでは? 翼を広げたのは「もう十分教えたから帰ろう」ということだったのでは?

 

◆音と音楽

音程(鳥の声を人が歌と認識するためのもの)は洞窟で生まれたのでは? 洞窟自体が楽器として非常に優秀だし、洞窟内での反射で得られる倍音は、人間が心地よいと感じる四倍音。ここから音程、音階が発生したのでは。言語・音楽・数の発生地は洞窟なのではないか?