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霊長類ヒト科アゲアシトリ属ジュウバコツツキ目の妄想多め日録

『風立ちぬ』

冒頭から自然の描写が美しすぎます。特に水面。汽車からの、まだ苗の植わっていない、水の張られた田んぼの広がる景色とか、飛行機の飛ぶ下を流れる小川とかの表現に眼が潤むほど。

ストーリーは、ウェブで事前に見かけたあれやこれやで、ヒロインが男にとって超・都合のいい人物造形で、萎えたらどうしよう、という心配があったけど、意外にもそれはありませんでした。それよりも、自分もあの時代に不治の病になってたら、まだ自力で動けるうちにやりたいことやりに行っただろうな、と思います。なにしろどんどん物資の足りなくなる戦争中に、じっくり病気を治したあとの未来なんて考えられなかっただろうから。

だから、自分がものごころついて初めて「悲恋映画」と認識して見ていた『会議は踊る』の歌「ただ一度だけ」が出てきた時点でそのあとに起こりうるいろいろな予想が渦巻いて、涙腺崩壊しそうになりました。

そういったことも含め、全般的に残酷でリアルながら美しい映画でした。とはいえ先がない設定っていうのはフィクションだと物事が凝縮してドラマチックに見えるけれど、現実の世界がそうなるのは勘弁してほしいわけで。

ところで、その残酷な時代背景を類推するとか、登場人物の言動の描写の積み重ねから性格ぶりを類推するのが、そんなにむずかしい映画ではなかったと思うんですけど、二郎ひどいやつっていう感想をけっこう見ますね。たぶん、ジブリ映画の中にパヤオを見たい人、追い求める人が多すぎるんだと思いますが。でも、ああいった戦時中の、いろいろなことが限定された状況が想像できないのは、平和ボケの一種かもしれませんね。

あるいは時代背景に関しては教養の、性格ぶりに関しては想像力の欠如からの批判なのかもしれないけど、二郎の「そのようにしか振る舞えない」つらさっていうのもじゅうぶん、現れてたと思うんだけどな。特に庵野監督の声で。

あの主人公、天才肌だけどややアスペっていう設定だと思うので、そういう人にありがちな抑揚のなさとか、思ってることしか言えない(妻に「綺麗じゃなくても愛してるよ」とか安心させるために言ったりできない)感じが、庵野秀明の声にはよく出てたように思う。あの不器用さはむしろプロの声優さんには難しかったのではないでしょうか。だから余計に、汽車のデッキで仕事をしながらヒロインのもとに駆けつける際の涙が沁みるのです。

主人公に「兵器を作ってるっていう葛藤がないのが云々」っていう批評もよくウェブで見かけるけど、冒頭でカプローニの戦闘機が燃えるのを見るシーンで、彼は重々それを承知していたと思う。それが表に出ない、出せない人間、でも葛藤がないわけじゃない、というキャラクターだからこそ、庵野秀明の、なにか錘がついているような棒読みに思える声がマッチしていたとも思えます。

そういえばこれもウェブのどこかで「天パのはずのヒロインの髪が結婚式でストレートになってる不自然さ」という記述を見たんだけど、初登場のときのストレートのおかっぱ具合とか、自宅療養時のストレート具合から考えると、主人公と再会したときはむしろ電髪を当てていたのであって、それがだんだんとれてきているという状況だったのではと思われます。最後に出てきたときにまたウェーブヘアだったのは、いちばん綺麗な過去の再会時の状態=美容院行ったばっかりの状態、だったのでは。