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『セデック・バレ』鑑賞後のよしなしごと

セデック・バレ』太陽旗、虹の橋を、朝11時から夕方4時過ぎまでぶっ続けで見た。見る前はハンカチやティッシュが必要かと思ったが、見ている間は苛烈過ぎて涙も出なかった。以下、つらつらと近代文明と宗教について思ったこと。

美術(少数民族の村、日本人入植地ーあえてこう書くーの再現)、衣装(少数民族のアクセサリーや、ちゃんと着てくたびれた感のある日常着としての和服のディテール)、山を裸足で駆け回る俳優たちの演技などなど(足の裏、なにか貼っていたのでしょうか?)、よくぞここまで再現したものだと思う。

同時に文化人類学民俗学に興味のある身としては、少数民族の世界と、西洋発の近代文明の衝突の過程で失われていく独自の文化を痛ましく見るしかない時間でもある。

近代文明側からは野蛮であるとか非効率であるとされてきた少数民族の慣習が、それぞれどのような規範に基づいているのか、どのような意味があるのか、それが彼らにとってどれだけ重要か、今ではちょっと調べれば誰でもわかる時代だ。だが、それを知らない自分の父祖たちがそれを蹴散らし、踏みにじる過程を逐一、見ているしかない。

例えばセデック族だけでなく、ラップランドイヌイットなども行う、捕獲した哺乳類の血をその場ですすり、生肉や内臓をを自前のナイフでこそげとって食べる、あるいは飼っている哺乳類を屠る際に血を受け皿に取っておいて食する習慣は、農業習慣の薄い彼らにとっては貴重なビタミン源の確保の機会だ。

セデック族が土地争いで禁を犯した他部族の首を狩るのは、狭い産地にいくつもの部族が生活する世界において、狩り場の均衡を保つのと同時に、無意識のうちに人口抑制を行っているという可能性もある。

こうした行為はいわゆる近代文明の側からは一時期まで「野蛮」と切って捨てられてきたが、しかし近代文明がまだ持たない自然環境へのサステナビリティが、実はそこにはあることが研究が進むにつれてわかってきている。

しかし、少数民族が自分たちをこうした見地から擁護できるようになるには、思想の言語化という近代教育が不可欠だ。その過程で「首を狩らなくても生きていける」近代文明を知ってしまったセデック族が、その魂を引き裂かれるくだりが、わたしにとってはもっとも辛かった。

そして、少数民族の少年たちが戦う場面では、民族の誇りとはもはや無関係に、いま現在、アフリカやアフガンでこういうことを脅されてしている/させられている子どももいるのだということを思い、平静な気持ちで鑑賞するのが難しい。

とはいえ、ただ楽しみのためではなく、自分の国の過去を知るためにも見ておいた方が良いと思う。ただ、日本人の言葉遣いや所作があまりにも現代的なのと、セデック族のあの刀では日本刀のようにすっぱりとは首は狩れないだろうなあ、というところはリアリティという点で不満だけれども。

もう一つ、考えるのは、人間にはなぜ宗教が必要なのか? ということ。これはおりに触れて考えることだが、キリスト教では「野に咲く花のように、空を飛ぶ鳥のように」作為なく生きることが推奨されたりもするが、宗教を持つ以上、宗教を持たない生き物のように生きることはもはや不可能だ。

動物は今のところ、人間側からは宗教がある生活を送っているようには思われないが、環境を甚大に破壊したりとか、同族を大量虐殺したりしないで、作為なく生きている。宗教のあるなしだけがその分け目になるとは言わないが、かなりの部分がそこにあり、かつ同時に宗教の持つ倫理によって人間の活動がある程度以上、破壊的にならないよう制限されているようにも見える。

宗教も、科学技術と同じように「使う人間の知恵と勇気」によってその影響が左右される、というだけのことなのかもしれないけれども。そして、そんな宗教に裏打ちされた近代文明も、すでに多くが失われてしまったけれど、少数民族の文化を尊重しようという方向に進んでもいることを思うと、絶望するにはまだまだ早いのかな、とも思う。