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『同志社大学神学部』

同志社大学神学部

同志社大学神学部

かつての神学部生と学生運動の関わりと著者の学生時代のその結果を、かつての学生運動の論争録と、著者と友人、教授との論争の記述で活写した自叙伝。唯一の注文としては、できれば章立てしてほしかった! 青春小説のようでありながら、章なし節らしきものだけで348ページはきつい(涙)

とはいえ巻末は、著者の外交官試験の結果はわかっているのに、受かるかどうかヒヤヒヤして読んだ。また、結びの344-348ページの教授たちによる数々の餞の言葉には思わず涙…。

が、ドラマトゥルギーっぽい記述があるのはこの二点を含め、全体で五点くらい。「あらすじ」の意味がない本を久々に読んだように思う。でもそれはこの本の欠点ではなく、読書する中で触発される瞬間瞬間が却って光ることに通じている。本書の347ページの石井教授の言葉のように……。

現実の人間の世界は薄汚れている。教会でも大学でも、ほんとうに考えていることを話すことが出来る人は何人もいない。家族だってほんとうに理解し合えているのかどうかわからない。ただ、人間には、利害や打算、憎しみを超えて、ほんとうに誠心誠意理解できる瞬間がある。残念ながら、それは瞬間で、長続きしない。しかし、そういう瞬間を体験した人とそうでない人では人生が異なってくる。僕も野本君も佐藤君たちとそういう瞬間をつかむことができたと思っているのです。それは僕たち人間の力によるものではない。イエス・キリストを通じた神様の力によるものです。頑なになった人間の心を開く力がキリスト教にはある。

触発された中にはこんな思いつきもある。教理聖省によるハンス・キュンクの聴聞と有罪が1979年、『薔薇の名前』が1980年。あまりに時期が近いので、後者が前者にインスパイアされたとは考えにくい。 だが、1978年からのヨハネ・パウロ2世下での、ヨハネス23世からの改革路線への軌道修正、第一公会議で定められた教皇無謬説への疑義を封じるための神学者への曖昧な処分(キュンクと同様の説を展開したシーべレックは聴聞されたがお咎めなし)による「恐怖」政治は、『薔薇の名前』での「笑い」の粛清と 同根だ。

ウンベルト・エコがこの件をもとに「抗議の書」として一年で『薔薇の名前』を書いたのか、それとも神学論争の推移と教皇庁の動きから、起こりえることを念頭に置いて書いたら時期的に重なってしまったのか、どちらかはわからないが、興味深いシンクロニシティではある。

薔薇の名前〈上〉薔薇の名前〈下〉

この、ヨハネ・パウロ2世下の反動保守的な動きと『薔薇の名前』のシンクロニシティという思いつきへのヒントのほか、ナチズムがある意味でユダヤ人を教祖とするキリスト教をどう利用したか(パウロをそのような意味で切り捨てていたのは驚き!)、「プラハの春」と神学との関連など、歴史の授業ではいまいちなぜそうなったのか腑に落ちなかったところがよくわかる。

もしかして、すでに同じ著者でキリスト教と歴史の関連についての著書が出ているのだろうか? だとしたら読んでみたいな。 日本での歴史の授業って、カノッサの屈辱とか教皇庁分裂の近世あたりまではキリスト教と政治の関わりを教えるけれど、近現代のそれはなかったことみたいになってるけど、その辺りがいろいろ腑に落ちるような近現代史を書いてほしい。

しかし『同志社大学神学部は、非常に心動かされるところもあるんだけど、野良クリスチャンの立場から動く気にまではなれないのであった。なんででしょうね? これは、神はクリスチャンにとってはキリスト教の神だけだけど、人間社会全体で見るとそうじゃない、という事実のせいかもしれない。

もっとも、わたしのこの宗教への態度というのは西洋近代文明の世界に住んでいる現代人には共通するものかもしれないとも思う。というのは、ベンヤミンが『複製技術時代の芸術』で芸術とそのアウラについて述べたのと類似のことが、宗教にも起こっていると考えられるからだ。

複製技術時代の芸術 (晶文社クラシックス)ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読 (岩波現代文庫)

複製技術の発達で、かつては王侯貴族のものであったクラシック音楽は、いまや民俗音楽やポップ・ミュージックと同じく、たくさんの選択肢の中からピックアップされるものとして等価になっている。

宗教・神学・哲学もある程度は、ネットの発達なども相俟って権威的な「師」の仲立ちなしでも触れることができるようになった。現代では本来の生活環境では触れ得なかった宗教に帰依することも可能だ。ニューヨーカーがチベット密教の信者になることもそう不思議ではない。が、同時にすべての宗教が選択肢として等価になりうるだけに、どれも選べない、魅力を感じない、訴求力がない、ということも起こる(信徒ではない仏教ファンのわたしのように)。

これは、ある意味では宗教も芸術と同じく「選択されるもの」となったことを指していると思う。このような状況で、宗教の聖性というアウラがかつてのように保たれるかについて、わたしは疑問に思う。というのも、宗教は人間によって「選択されるもの」ではなく、宗教の側が人間を「選択するもの」、召命するものだったはず。

この転換点を境に、宗教の側がどう対応するかということが神学や哲学では考えられ、実践されるべきだと思うのだが、少なくともカトリック教会では現在のフランシス法王になってようやく端緒についた、という感があり、今後、宗教と信者の関係が変わっていくとすれば、ここからではないかと、野良信者ながら少し期待もしている。