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『ルンタ』@渋谷シアター・イメージフォーラム

18日に渋谷シアター・イメージフォーラムで上映の始まった、チベットのドキュメンタリー映画『ルンタ』を、今日、ようやく見てきた。整理番号2番で入ったのに、心が千々に乱れ、シアターから出るのが最後になり、偶然にも次の回で入ってきた友人に肩を叩かれ現実に戻った。わたしにとっては、これは見ながら参加する法要のようだった。

まず、焼身抗議したチベットの人々を、彼らを知る人が話題にし、その最後の地を巡り、チベット人焼身抗議した人々の遺書を読む。エンドロールで、最後に亡くなった方々の名前が映されると同時に、チベット語のお経が流れる。なんだか法要の流れによく似てはいないだろうか?

さて、そんなふうに思いながら、この作品は、チベット・サポーターやダライ・ラマ法王のファン、チベットの現状を知る人と知らない人では、心の乱れるところが違いそうだなあ、と思いながら帰ってきた。

TVのニュースや主要紙などで紹介されているからか、監督のこれまでの作品の面白さから期待してか、平日の5時の回でも20人弱の入り(これはミニシアターとしては多いほうなのです)。わたしの前の列に座った30歳台の男性二人組は、お一人が『先祖になる』を見ていてもう一人を誘った模様。男性が多め、また団塊世代が多め。

始まってすぐ、チベット人焼身抗議の写真の絵解きを聞いて、すでにつらい気持ちのわたしがいる。が、同時に「チベットのことをあまり知らない人にこの映画はどう訴求するか?」を分析し始める自分もいる。画面にずっと映っているのは、チベット・サポーターにはおなじみの、あの人だ。おなじみだけど、ここまでプライベートが知られるのは初めてでは? と、ヨガの様子や実家の様子を見て親しみを感じる。だが、もうひとりの自分が言う。「チベットのことをあまり知らない人は『このヒト、だれ?』と思って見ているのではないだろうか?」

その人のことは、映画の中で断片的に語られる。すでにウェブに発表されている監督へのインタビューや、映画公式サイト、パンフレットを読めばわかるのだけれど、映画単体としては、チベット初心者、あるいは部外者向けには、情熱大陸みたいに「中原一博 長年、チベット亡命政府建築士を勤め、今も亡命政府のあるダラムサラに住む」くらいの紹介はあってもいいのかな、と思った。

もう一つ、その人、つまり中原さんが映画の最後に行うこと。チベット初心者、あるいは部外者向けに、この意味をはっきりさせるために、チベット本土ではこの行動を人前で行うとどうなるか、をいろいろな人物の言葉で明示したほうがよかったのかな、と感じた。

わたしは一方で、そんな思いや考えを押し流すような感情の奔流に襲われていた。草原のチベット人の青年が日本人について言う一言。その意味は、前後の草原についての中原さんの説明とリンクさせると、どういう思いで発せられたのかと胸が苦しくなる。中原さんが映画の最後に行うことも、この映画を見たチベット人にとっては、よくやってくれた、という行いだろう。わたしもチベット・サポーターとして、そちら側にいるので、自分が泣いてどうする、と思いつつも、涙が止まらなかった。

それだけに、上映後、前の席の男性が困惑した様子で、「……変わったつくりの映画だったね」と言ったのが気になった。それはやはり、断片的に紹介される中原さんについて「このヒト、だれ?」と思ったためなのではないかと。できれば、その疑問や「変わったつくり」がなぜなのか、思考停止せずに、調べてみてほしいと思った。