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霊長類ヒト科アゲアシトリ属ジュウバコツツキ目の妄想多め日録

『屍者の帝国』@TOHOシネマズ新宿

入場者プレゼントです、と栞をもらったのだが、まさかキャラデザイン表でいちばん違和感のあったこの人をこのイラストレーターが描くとは。違和感は、あの時代に服を着ているにもかかわらずのあのお胸のラインなのですが。

それはともかく、映画版『屍者の帝国』は愉しかったです。大塚明夫さんの声を聞いたせいか、屍者たちが『イノセンス』のタイプハダリたちの起動シーンを思い出させるせいか、たびたびバトーさんの「魂を吹き込まれた人形がどうなるかは考えなかったのか!」を思い出してしまったり。

さて、映画『屍者の帝国』の、生者に死を上書きする禁断の技術、とくに「殺意」を書き込む点について、「ああ、これ、ワロエない……」と思った。ネットではネトウヨやそれを迎え撃つ陣営が、極めて強い調子で相手を罵っているのを見かけない日はない。

映画内で死をインストールされる生者はたいへんに苦しそうだし、上書きされて「生ける屍」になってから人間を殺そうとする副主人公は、かなり辛そうだ。ところが、ネトウヨやそれに相対して罵りあう人々は、死の思想、つまり解決に至らない、対話に繋がらない思想を自身にインストールするのに、まったく辛そうじゃない。攻撃するときもむしろ嬉々としているようにさえ見える。

Kuchinashi @jasminoides さんの先日のツイートがその状況を能く言い表していると思うので引く。

怒って罵詈雑言が出てしまう気持ちがわかることもあるけれど、自分とは真逆の主張をする人を「狂ってる」「頭がおかしい」「知能(あるいは偏差値とか学歴だとか)が低い」云々とか書いたらスッキリするのか。考えてることはまるで違うのに同じパターンの罵倒をお互いにぶつけあっていてどうする。

そう、まるで違う思想のはずなのに、罵倒は同じパターンに見えるのだ。だとしたら、彼らは何らかの目的のために「死の思想」をインストールさせられて、諍いを「させられて」いるのかもしれない。『屍者の帝国』で描かれることを、絵空事として笑い飛ばせないと思うのは、そういう意味だ。

せっかく生きているのに、誰かの思想をインストールして、誰かと同じように振舞うなんて、つまらなくないですか? そういうのって、若い頃ならまだ厨二病ですむかもしれないけれど。

追記:『屍者の帝国』、グレートゲームの時代なのにチベットが出てこないな、そういえば。チベットの『死者の書』から屍者技術が学べるところは多いと思うけど、チベット文化では屍者技術をまったく必要としないだろうというところからか。