怖くなかった……
一時期、「本当は怖い」ものが流行ったことがありました。10年くらい前かな、と思ったら……。1998年とか! 本や雑誌を参照してそれが2000年代じゃないっていうのが怖い……。
まあ、それは置いといて、その「本当は怖い」をタイトルに関したウェブ記事があったのです。ほほう、どんな「本当は怖い」が開陳されるのかな? わくわく。
怖くなかった……。テキスト長すぎるし、ちゃんちゃんこが赤いことに本当は怖い(学校の怪談的な)意味があるのかと最後まで読んで裏切られたこのやるせない気持ちをなんとしよう。ええい、こうなったら妄想だ!
「タカシ、おばあちゃんのちゃんちゃんこ出来てきたから渡してきて」
パート帰りの買い物を両腕にぶら下げたうえに、玄関先で受け取ったらしい宅急便を載せた母が、器用に足だけで靴を脱ぎながら言った。ぼくはあわてて母の手から宅急便の箱や買い物袋を下ろすのを手伝う。
「箱のままじゃなくて、出してからね!」
「はいはい」
まだ布団をかぶせてはいない炬燵板の上で段ボールの開封口をびりびりと開ける。
「そういえば、サワダくんのお母さんが、こないだの運動会のリレー、タカシくん速いのねえ!って言ってたよ」
「あっ、そう?」
五年のときの運動会まで、サワには走りで負けてたから、ちょっとうれしい。とりあえず卒業までには勝ちたいと思ってたのが、運動会っていう場でかなったし。
「サワダくんは塾に行ってていなかったけどね」
サワのやつ、中学受験して中高一貫の男子校に行くらしい。いや、あいつなら行くだろうと思う。ちょっとさみしいけど。
「ちゃんちゃんこ、とくにほつれてるところとかないみたいだよ?」
「そう? じゃあおばあちゃんとこ持ってってあげて」
すでにジャージに着替え、ヘアバンドをしてメイク落としシートで顔を拭きながら、冷蔵庫から麦茶を出す、という早業をしながら、母が言う。ぼくはこういう素早さと器用なところは、母にぜんぜん似てないのが残念だ。
「ちゃんちゃんこだけ持っていくっていうのもさあ。なんかお茶請けとかないの?」
「あ、そうだわね、えーと」
ホームパイと芋羊羹を取り出した母は、しげしげとぼくを見る。
「なに?」
「いやさ、あんたのそういうきめ細かいところ、誰に似たのかなって。わたしはだいぶ助かるけど、マリコがそうなってくれなさそうなのが、残念」
なるほど。まあたしかにマリコは女子だけどきめ細かくはない。曖昧にうなずきながら、お皿の上で切り分けられてラップをかけられた芋羊羹と、袋のままのホームパイ、ちゃんちゃんこの入った袋を持って離れに向かう。
おばあちゃんは、というか、おばあちゃんたちは、離れに住んでいる。おばあちゃんたち、とは、おばあちゃんと、おばあちゃんのお母さんだ。おばあちゃんは母の母であることが納得の、素早く器用に動き回るたちで、そのおばあちゃんのお母さんはそんなおばあちゃんのことを、「こまねずみみたいに、誰に似たんだろうねえ」と言っている。
炬燵は必要ないとはいえ、日が落ちると外は上着なしでは少し寒い。小走りに離れに飛び込むと、玄関にマリコの靴が脱ぎ捨てられていた。
「こんにちはー」
「お兄ちゃん、こんばんはでしょ? あっ、ホームパイ」
走り出てきたマリコが目ざとくお菓子を奪っていくので、芋羊羹のお皿を落としそうになる。
「おばあちゃんは?」
「おばあちゃんは出かけてるよ、ひぃばあちゃんとテレビ見ながらあやとりしてた」
「そう。ちゃんちゃんこ持ってきたんだけどな」
「お茶ァ、淹れるから、入って待ってたら」
ひぃばあちゃんの声がかかる。
「そうしまーす。芋羊羹もあるよ」
「ああ、あたしぁ、そっちの方がホームパイよりかいいねえ」
ひぃばあちゃんは100歳のはずなのだが、毎日、離れのほとんどすべての家事をしている。おばあちゃんがテニススクールだ老人会だと毎日、飛び歩けるのもそのおかげだという。
「お茶って言ったって、いつものカフェオレだけどねぇ」
ひぃばあちゃんの最近の楽しみは、ネットでいろんなコーヒー豆やその道具類を買うことだ。豆を挽く道具は前からあったけど、さいきんは豆を煎る道具も増えた。
「今朝、挽いた豆だからねぇ」
お湯が沸いてくる音を後目に、カップとソーサーをマリコが三人分、ガラス戸棚から出してくる。
「そういえば、ひぃばあちゃんの友達は、あんまり来ないね?」
マリコが言う。
「おばあちゃんの友達と違って、あたしの友達ぁ、もうほとんどいないからねぇ。いても老人ホームにいたり、家族と住んでると、なかなか出歩けないのよ」
そうか、うちは離れだからおばあちゃんの友達が集まりやすいのか。漂うコーヒーの香りに包まれながら、ガラス戸棚に1ダースくらいあるカップとソーサーを数えた。14セットあった。
「さあ、座んなさい。お砂糖はそれぞれ好き好きにね。お菓子があるから入れすぎんじゃないよ」
ひぃばあちゃんがまったく危なげなく三客のコーヒーをお盆に載せてテーブルにやってきた。ひぃばあちゃんはいつもどおり、お砂糖なしだ。それから運動会の話とかおばあちゃんがテニススクールでモテてる話をしながら芋羊羹やホームパイを食べる。
「タカシ、食べ終わったら肩もんでくれるか?」
「うん、いいよ。昨日またゲームやってたの?」
「ああ、あのネットで対戦できるやつぁ、なかなか引き際がはかれなくってねぇ」
ひぃばあちゃんはつまみ食いを見つかったときのマリコのように、笑った。ぼくは空になった自分のカップとソーサーを流しに運び、軽く水洗いして、自分の手もついでに洗いながら、ひぃばあちゃんに言う。
「そういえば、ちゃんちゃんこいちおうサイズ合わせてみて」
マリコがビニール袋からちゃんちゃんこを出して、おばあちゃんとほとんど同じ体格のひぃばあちゃんの腕に通す。
「お兄ちゃん、サイズって言ったって、これ袖なしじゃない」
「そうだけど、丈が短くてつんつるてんだったら変だろ?」
そんなぼくらのやりとりを見ながら、ひぃばあちゃんが言った。
「あんたのそういうきめ細かいところ、誰に似たのかねぇ」
さっきの母と同じことを言われ、なんだかどきっとしたけど、ぼくはひぃばあちゃんの肩を揉み始めた。
「ちゃんちゃんこがなんで赤いか、知っとるかね」
「しらなーい」
「昔は農村ってぇのは貧しいから、飢饉のときなんかぁ、働けなくなった老人を口減らしのために山に捨てる、姥捨てって習慣があってね」
「口減らしって?」
「食べる口を減らすってことだよ」
マリコの食べる手が止まる。
「まあ、そんで、60歳になるとよっぽどじゃない限り、死に装束を着せられて山に置き去りにされたのさ」
マリコはテレビを見るのをやめ、じっとひぃばあちゃんの話すのを見ている。
「ところがあるとき、山に置いてかれた老婆が熊に襲われたんじゃが、真っ白な死に装束を血染めの赤に、返り討ちにして、村に帰還したのが赤いちゃんちゃんこの由来なのさ」
マリコがごくんとつばを飲み込むのが見えた。
「ひぃばあちゃん、それ、ほんとう?」
テレビの音だけが騒がしいのに耐え切れず、ぼくは言った。
「うそだと思うかね? あたしの頭のてっぺんのちょっと右に、10センチくらいのハゲがあるじゃろ」
言われて白髪をかき分けると、たしかに10センチほどの長さに髪の生えていない肌色の部分がある。
「それが、熊に襲われたあとさ」
「キャーッ!」
「もー、おかあさん、ホラ話やめてくださいよ! 孫たちが本気にするでしょ!」
いつの間にか帰って来ていたおばあちゃんが、マリコを抱きとめながら怒った。
「え、うそ?」
ぽかんとしているぼくに、おばあちゃんが言った。
「あのね、飢饉で山に人を捨てる時代にひぃばあちゃんが60歳だったわけないでしょ! あんたももう来年中学なんだから、考えなさいよ!」
肩を揉むのをやめて、ぼくはテーブルにつき、ひぃばあちゃんを見た。
「ひっひっひっ、バレたか」
「おかあさんもね、対戦ゲームのし過ぎ!」
おばあちゃんは、小さい頃からひぃばあちゃんのホラ話に翻弄されてきたという。そのせいか、なかなか怒りが収まらない。一方、ひぃばあちゃんはにやにやしながら、すっかり冷めたカフェオレの残りを飲んでいた。今日も我が家は平和である。