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ブレードランナーと攻殻機動隊の根差すところ

2049と2051、この二つの空想未来世界での人間と使われるモノとの関係の差は、どこからきているのだろうか、ということを『ブレードランナー2049』の感想を書いてから考えていた。

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ブレードランナー=2049の世界では、人間はあくまで人間のまま(シャッチョサンが一部電脳化してるっぽいようでしたが)。そして自身と組成において変わらないレプリカントを製造・差別化し、世界の維持や拡張に伴う危険・汚い・きついという3K仕事はレプリカントに任せている。
対して2049の前作、2019年のブレードランナー世界に影響を受けているはずの攻殻機動隊=2501の世界では人間自身が電脳化、義体化を導入し、一代限りのかたちではあるが身体を拡張することで、生身の人間がなしえなかった3K仕事をこなして世界を変えていく。また、2501の世界ではアンドロイドやAIに人間の魂=ゴーストを上書きすることは禁じられている。機械はあくまで機械。だが、押井守が『機動警察パトレイバー THE MOVIE』で遊馬と野明に言わせているような「使う者の知恵と勇気」が、人間に似てもいないAI・タチコマに「性格」らしきものを芽生えさせたりもする。


この世界観の根差すところについて、わたしのアタマですぐに思いつくのは宗教観だった。
2049の世界では神が造った人間は魂あるものとして扱われるが、人間が作ったレプリカントは家畜と同じ扱い、よくて待遇のいい黒人奴隷だ。そこには旧約聖書に書かれた神と、神がデザインした人間、神が人間のために造った世界という秩序が保たれている。
それに比べると2501の世界では、人間は神が造った姿のままに留まらない。義体化してみたり電脳化してみたり、人間型どころか箱に手足のついたジェイムスン型義体に好き好んで移植されてみたり、さらには義体と電脳からも遊離してネット上を漂う意識体(キリスト教的に考えれば、これはもはや天使の領域である。実際、映画ではそのような描写がある)になってみたり。


「GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊」予告編 YouTube2


仏教では、キリスト教の神のように、倫理規範を司る存在が人間の外部に存在するとは考えない。すべての生物が仏性、つまり完全な人格者としての仏陀になれる可能性を宿していると考える。また、すべての事象は「空」であり、人間存在の物理的な様態を含め、本体や実態はこれだ、と定めることには意味がない、と考える。2501の世界はこうした、仏教的な世界観に根差しているように思える。押井守が作中で聖書を引用しているにもかかわらず、だ。
ただ2501の世界でも、身体と脳から自由になって、一見すると形の上では解脱はしているのに、『GHOST IN THE SHELL  攻殻機動隊』の続編『イノセンス』を見ると、人間の煩悩は消滅せず「成仏」できていないのがおもしろい。人間は、いったいどこまで迷える人間なのだろう。