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手の重さ 《連作短編集「デッドロックのはずれ方」3-2》

「この曲、終わったら音楽室に入って聞こうか?」

「だね、そろそろあの曲を歌う順番なんじゃない?」

 

 実佳と詩緒が小声ではしゃいでいる。そういえば曲は、休みにみんなで見に行った映画の曲だ。吹奏楽部見学のお知らせには、演奏をバックに見学者全員で歌うレクもあるって書いてあったっけ。久実は映画のことを考えていた。「中学生だから、一緒に行って!」 と各自の親を引っ張り出し、3D鑑賞料金をちゃっかり出してもらう作戦で、久実の母も一緒だった。

 

 映画館では久実の母は、ふつうだった。みんなで合唱するときは、一人だけオペラみたいな歌い方ではあったけれど、少なくとも、ふつうに振る舞おうと努力していた。ふだんはジャンクフードを生活から閉め出しているのに、あの映画館中をキャラメル臭で満たすポップコーンにも二、三度、手をのばしたのだ。

 

(お母さん、変わろうとしてるのかな……)

 

 久実はそれを見て、母が変わってしまった日の前の夜を思い出していた。

 

■ ■ ■

 

 夕食に間に合わない、というより、小学校高学年になった久実が、読書やアニメを見る誘惑より眠気に負けてしまう時間あたりに帰ってくるようになった父が、母とケンカしたのを境に、母は、あの完璧な食卓を用意しなくなった。その日、久実は、タモリ倶楽部までは起きていようと部屋でマンガを読んでいた。気づくと、階下で声がする。

 

(なんだろう?)

 

「だから、作るんでもふつうの日本の食卓のものも作ってくれよ! ぼくだけじゃなく、久実も成人病になったらどうする?」

「だったら食べなきゃいいでしょ! 作るのはわたしの勝手じゃない!」

 

 わたしがセイジン病? セイジン病って何? よく聞こうと階段から降りかけると、なにかが割れる音が派手にした。

 

「だから、そういう極端なところがストレスなんだよ……」

 母がグスグスと泣く音がする。

 

「とにかく、今日はもう遅いし、寝るから」

 

 父の声に、久実は階段の上から急いで自分の部屋に退却した。しばらくすると、父が二階のシャワーブースを使う音がしてきた。久実はまた部屋を出て、そっと階下に降りて行った。リビングに入ると、酸っぱいにおいがする。ピクルスだ。キッチンの電気がついている。行って、シンクを覗くと、ガラスの密閉容器ごと叩きつけられたらしい、ピクルスとガラスの残骸が片側に寄せてあった。

 

 その日、久実はタモリ倶楽部をリビングのテレビではなく、携帯のワンセグで、ベッドに横になって見た。楽しそうなおじさんたちを見ていると、なぜか、涙が流れて止まらなかった。

 

■ ■ ■

 

 久実の母は、そのケンカの翌朝から、妙にべたべたと甘えるようになった。父にはどうかわからないが、久実には、家のなかだけではなく、外出先でも甘えた。以前は久実ひとりの役割だった、取り込んだのや、アイロンをかけてハンガーにかけてある洗濯物をたたむ時、必ず一緒にたたむようになった。食事のための買い物も、以前は詳細な買い物メモを渡されて、わからない場合は家で待機する母に携帯で連絡を取って、とにかくひとりで買って帰ってくるルールだったのに、メモはなく、いまでは休みの日、あるいは久実が塾から帰ったら二人で買いに行く。

 

 スーパーで、何が食べたい? と母は聞く。けれど、久実はもうハンバーグ、とは言えなくなっていた。無難に、あの日のケンカの父の言葉も思い出して、けんちん汁、とか、お魚の煮付け、とか言ってみる。母はほほ笑んで、それぞれの材料を、携帯で調べながらカゴに入れていく。カゴは左手に、右手は久実の左腕に絡めて。

 

 久実は、その母のほほ笑みが怖かった。うまく説明できないが、小学校の修学旅行のディズニーランドの暗がりで、ずっと笑顔のままの着ぐるみを見たときのような、なんとも言えない気持ちを思い出すのだ。だが、それを父に説明することはできない。たまの休みに食卓を三人で囲んでいると、ふつうの食事で、父も母も和やかに箸を進めている。けれど、父にもなにか、問題があるということに久実は気づいていた。

 

 ある金曜日、いつものようにタモリ倶楽部を見て、二階に引き上げる前、一階のトイレに行った時だった。隣り合った風呂場から、なにかうめくような声が聞こえる。洗面所兼脱衣所には父の服がたたんである。

 

「お父さん、大丈夫?」

 

 思わず声をかけると、バスタブのお湯が動く音がして、父がからりと引き戸を開けて顔だけ出した。

 

「ああ、久実か、大丈夫って、なにがだ?」

「なんか、声がしたから」

「なんか疲れちゃったのか、お風呂で寝ちゃってた。イビキかな」

 

 そういう父の目は、真っ赤だった。

 

「お父さん、目、赤いよ?」

「……うん、さっき、間違ってシャンプーで顔洗って、目に入っちゃった。バカでしょ」

 

(お父さん、ウソついてる……)

 

 父は茶化したが、久実はなにかが不安だった。

 

「冷えちゃうから、もう一回、つかりなよ。今度は寝ないでね!」

「お、そうだな、サンキュ」

 

 努めて明るく言って、引き戸を閉める。階段を上がって、部屋に入り、ベッドに潜り込む。だが、眠れない。もう、タモリ倶楽部を見たあとの楽しい、脱力した感覚は吹き飛んでいた。

 

(お父さん、ジサツしちゃったら、どうしよう)

(そんなことない、お父さんはそんなことしない)

 

 悶々とベッドで寝返りを打つうちに、父が階段を上がり、夫婦の寝室に入った音がした。久実は、ほっとため息をつきながら、もう一度、からだの向きを変えた。

 

(わたしが、がんばらなきゃ)

 

 なにをがんばるかもわからず、久実はそう思ったが、その晩は朝刊がポストに入る音がしても、まだ眠れなかった。そのせいか、久実はひどい顔で登校し、いつも健康優良児な久実しか知らない体育の先生に心配され、見学させられた。

 

■ ■ ■

 

 みんなで映画に行ったあとから、母の甘えはひどくなった。それも、外出先での甘えが、よりひどくなったという感じだった。そして、かたくなに許可しなかったファストフード店に、外出中に入るようになった。以前なら、母お気に入りのちゃんとした喫茶店で、久実が「おいしそう」と言っても、母とは頼んだ食べ物を分け合うことはけっしてなかったが、いまではミスドのドーナツを半分こしたり、時には同じレンゲと箸で麺類を分 け合うことさえあった。それも、久実の選んだものを、当の久実が口をつける前に、母がほおばることさえある。

 

 そんな外出から帰ってくると、久実はなんだか疲れて、夕食まで昏々と眠ることが多くなった。そのせいか、夜はなかなか寝付けない。そういうとき、久実の考えごとはいつのまにか同じところをぐるぐる回り始める。

 

(お母さんがわたしに甘えるんなら、わたしは、誰に、甘えたらいいの?)

(お父さんは、だめだよ。お父さんはお仕事で大変だもん。でも……)

(けど、わたしががんばらないと)

(そうだよ、わたしががんばらないと)

 

 結局は、自分がなにをがんばるのかわからないまま、そう自分に言い聞かせながら久実は眠りに落ちるのだった。

 

■ ■ ■

 

「あ、終わった♪ 入ろ入ろ!」

 

 実佳の声で顔を上げると、吹奏楽部には本気で入部する気はないけれど、この人気曲を歌うという点に惹かれてか、久実たち以外にも女子が数組、集まってきていた。音楽室のドアが開く。

 

「はーい、お待たせしましたあ、歌いたい人、どうぞどうぞー」

 

 開いたドアからは、ブルーのメタリックなフレームの眼鏡をかけて、髪型を例の曲のヒロインに似せてか編み込んでいる若い女の先生が現れた。階段教室に手際よく中学生たちを誘導する。

 

「はい、わたしが顧問のセンセーです。合唱部の副顧問も兼任してるので、今日の見学体験で楽器で音を出したいって思ってくれたら吹奏楽に、自前の声で歌いたいってなったら合唱のほうに来てね。じゃ、はじめましょうか!」

 

 吹奏楽用にアレンジされ、ややパワーダウンしてはいるものの、映画館にみんなで行く前も、そしてあとにも、何度も聞いた曲のイントロが流れ出した。歌いながら、久実はいつの間にか家のことを考えていた。

 

(うちにいると、お父さんもわたしも、ありのままではいられないんだ。……お母さんは? お母さんにはあれがありのままだったの?)

 

 いつから泣いていたのかわからないが、実佳が気付いた時には、久実は歌いながら涙を流していた。歌声はやや震えていて、制服の胸元には、いくつかの涙のしみができていた。

 

 

 

 

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