読んだり食べたり書き付けたり

霊長類ヒト科アゲアシトリ属ジュウバコツツキ目の妄想多め日録

神社よりお寺

小正月も過ぎて旧正月も近くなったけど初詣のこと。

元日は近所のお寺に行った。お寺の近くの大通りには神社があるのだが、ふだんは閑散としているのに行列ができていて驚く。

一方、神社に隣接しているわけではない、少し離れた場所のお寺は、こじんまりとしているのにそんなに混んではいない。お墓まいりも兼ねている人もそこそこいるにもかかわらず、である。

門徒でもなく仏教徒でもないが、ちょっと心配になって、本殿とお地蔵様と、夫婦で計4束のお線香を買って備え、七福神のお守り入りおみくじを引いた。おみくじは御神籤と書くので、もしかしたらお寺では別の名前が本来なのかもしれないが。いやしかし、七福「神」がフィーチャーされているのだから、御神籤でいいのか? それを考え始めると、七福神の由来となるヒンドゥーの神々が仏教に取り入れられた過程の話にまで遡るので、それは措いておく。

 

f:id:Mmc:20190127010805j:plain

新年早々、猫に不審がられる。

 

ところでキリスト教徒のわたしが、仏教徒の夫の人の付き合いもあるとはいえ、なぜ初詣に神社ではなくお寺に行くかというと、そこはやはり、人間が救われるための道を必死に探った同じ人間であるブッダへの思いがあるからだと思う。

キリスト教に関しても、旧約聖書の神を信じているかといえば、そうではなくて、腐敗したユダヤ教に救われなくなっている人々に何ができるかを考えたイエスへの尊敬があるだけだ。

その点では神社に詣でる意味を、わたしは見出せない。だって八百万の神って、ギリシャローマ神話の神とどう違うのだろう? 彼らは星の運行や地理的要因で繰り返す天災、死後の世界への不安や繰り返される近隣の共同体との紛争の記憶から生まれた、昔の人間の記憶のかけらや想像力の成果ではあるけれど、そこにブッダやイエスムハンマドみたいな人間の生活や人生をよくしようという意志は感じられない。そこに、尊敬する気持ちは湧かないのだ。

 

f:id:Mmc:20190127010953j:image

 

そんなわけで、今後も初詣をするとしたらお寺だろうと思う。なお、わたしの引いたおみくじは小吉ながら、普段から自戒しなければ、と思っていることが書いてあった。ううっ。

 

f:id:Mmc:20190125004805j:image

f:id:Mmc:20190125004819j:image

 

また、入っていたお守りは福禄寿(人望)とあった。これもわたしに足りないものである。ううっ。

 

f:id:Mmc:20190125005226j:image

f:id:Mmc:20190125005244j:image