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利己的なご意見

「いま現在、DV被害者なわけでもないのに」
「自分の仕事と収入があるのに」

10万円給付の方法でDV被害者が自分自身でお金を受け取れるようにしてください、とか、自粛と休業要請はセットにしないと治安の悪化が心配、など、わたしは官邸にたびたび意見を送っている。そのことについて、上記の理由から、でしゃばりとか不要と思う人もいるかもしれない。このことについて、ちょっと書いておこうと思う。

カトリックのミサで歌う典礼聖歌400番にこういう歌がある。

 


ちいさなひとびとの chiisana hitobito no カトリック典礼聖歌400番

 

ときには差別問題がらみで、別の場所では障害者の方からの反撥により、またキリスト教系の児童養護施設の子からは「ぼくたち、さみしいと思われてるの?」という声が上がったりなどして、歌われることが少なくなっている曲だ。

わたしとしては「一人一人の中にキリストがいようがいまいが助ける手段を考えるし、見守るだけじゃだめだろう」という点からこの歌詞に反撥を覚える。実際に歌うと、歌う側が豊かであればあるほど、より自分の「善さ」に自己陶酔できてしまう歌詞でありメロディだな、と思う。そういう違和感が他にもいろいろあって、教会に行かなくなったということはある。

で、わたしが官邸に意見を送っているのは、この歌詞に表されているような「貧しい人」「捨てられた人」のため、あるいはそうなりそうな人を食い止めるためではある。

ただ、そうする理由というのは博愛主義的な理由なんかではなく、極めて利己的な理由で、それは治安悪化を食い止めて、安心安全な社会に暮らしたい、というその一点からの行動なのだ。いろいろなことがあって、黙って座っているだけでは安全・安心な社会は歩いてこないと実感してしまったからだ。

だからこれは、テイクアウトのみになった馴染みの店で、お弁当を買ったり、コーヒー豆を買ったりすることで、自分がafterもしくはwith新型コロナの時代にその店の味を楽しむことにつなげたい、という行動と基本的には変わらない。

もしかしたら、いや、たぶん、キリスト教徒が少数派じゃない国に住んでいたら、教会から離れずに、教会で上記の論にしたがって協力者を募ったかもしれないな。