黒タピオカ入りバニラミルクの精
オフィスビルの10階でひとり深夜残業していたコロナ禍の、残暑厳しい秋の夜だった。ベランダ方面から窓になにかぶつかる音がするので振り返った。うわっ、誰かいるし、窓ガラスこつこつ叩いてる!強盗か? しかしそいつは強盗にしてはおしゃれすぎる格好をしていた。白地に不規則な黒の水玉の散ったおしゃれカットソーに、カラーコーディネートしているのか着けている布製マスクも本体は白、耳掛け部分は黒の短髪の茶髪男子だ。
zoomを立ち上げ、何かのときには誰かリモートワークで起きてるやつが見てくれることを祈りつつ、三つある窓のロックを解錠、10センチちょっとの隙間を開けたところで、そいつは甘ったるいバニラの香りとともにぬるりと室内に入って来た。えっ、ちょっと待て、猫でもないのに、今、どうやって入った? 混乱していると、そいつは言った。
「こんばんは、先日、助けていただいたブラックタピオカ入りバニラミルクっす。愛称、黒タバミっす」
「は?」
黒タバミ「あの、こないだUber eatsの誤配で隣の空室のドアノブに下げられてたのを連絡してもらったじゃないっすか」
そういえばそんなことがあった。Uber eatsには「そっちで処理してくれないか」と言われたのだが、甘い飲み物類が苦手、タピオカドリンクももちろん嫌いで触れたくないのと、Uber eatsへの教育的指導として突っぱねて引き取りに来させたのだ。
それにしてもこいつがあの時助けたタピオカドリンクだとしたら、ずいぶんフランクというか上から目線ではないか。
「はあ。どこから来たの?」
黒タバミ「屋上のヘリポートまでヘリで、そこからはロープで」
「あの、インターフォンって知ってる?」
黒タバミ「機械通すと人の姿に見えないんすよねえ。カップ入りのブラックタピオカ入りバニラミルクのままなんで、下手したらインターフォンのカメラの視野から外れる可能性があって」
「それで肉眼で間違いなくヒトに見える方法にした、と」
黒タバミ「はい」
「……」
漂う甘ったるいバニラの香りが濃くなってきて気分が悪い。室内の酸素が薄くなった気さえする。
「じゃあ、この部屋の入り口から出て行ってくれるかな?」
黒タバミ「や、恩返ししないと帰れないっす」
「この部屋から出てエレベーターに乗って帰ってくれることが恩返しだから」
黒タバミ「……。帰るとこが、ないんすよ」
「そんなこと言われてもね」
黒タバミ「あのあとお店、潰れちゃって」
「いや、うち関係ないし、もともと隣のオフィスへの誤配でしょ? 恨むなら誤配したUber eatsの配達員に」
黒タバミ「いや、自分、恨みとかじゃなくってマジ恩返しで来たんすよ」
話が通じなさそうだ。その間にも部屋に漂う甘い香りはどんどん強くなってきた。割り箸を持って空中で振り回せば綿飴でもできそうな具合だ。
黒タバミ「そもそもタピオカ界の雄、ゴンチャ・ジャパンの社長に原田泳幸が去年の12月に就いたのが不幸の始まりなんすよ」
いや、タピオカドリンク屋の大量閉店は新型コロナで客足が激減したせいだろ? いくらあの原田がキング・ボンビー伝説持ちでも、タピオカ業界ごと葬り去る濡れ衣着せるのはどうなんだ? うう、しかし言い返そうと口を開けるだけでこの甘ったるい匂い。たまらん。頭も痛くなってきた。
「とにかくそれもうちに関係ないから」
なるべく息をしないようにしたまま早口で言って、黒タバミ男子の両肩を後ろから掴む。
黒タバミ「ちょちょっと何なんすか?」
息を止めてぐいぐいとそのまま押してオフィス入り口脇に片手で男子を押し付け、片手でドアを開け、足でドアを押さえて両手で男子を外へ押し出し、入り口を閉めて施錠した。その途端、視界は白い靄に包まれた。
「タカハシさん! タカハシさん!」
デザイナーのフクナガさんの声が聞こえる。パシッ! いてっ、な、何? 視界に飛び込んできたのはオフィスの相も変わらぬ味気ない天井と、リモートワークをしているはずのデザイナーのフクナガさんの眉間に皺の寄った顔、そして振り上げた左手だった。
「わっ、ちょっと待って! 起きる! 大丈夫だから!」
フクナガさんの眉間の皺が解ける。
「よかった、急にzoom立ち上がって何かと思ったら」
そうだ、あいつ! あのあとまた侵入してこなかっただろうな?
「入り口のドアにタピオカドリンクぶちまけたみたいになってますけど、タカハシさん、もしかして……痴話喧嘩?」
「えっ?」
「よく見えませんでしたけど、なんか若いおしゃれ男子連れ込、や、一緒にいました、よね……?」
フクナガさんの眼がキラキラしている。くそっ、機械を通すとタピオカドリンクにしか見えないんじゃなかったのか? やっぱりあいつ、オフィス狙いの強盗か不審者だったんだな。
「わたし、誰にも言いませんから。ほかにzoom入ってた人、いませんでしたし!」
フクナガさんの眼がいっそう輝きを増す。マスクをつけているせいか、眼の輝きが際立って見える。鼻息も荒いようだ。そうだ、フクナガさんは重度の妄想族で腐女子だった……。
「それで、やっぱりその、タカハシさんが振った感じ? だから彼、腹いせにタピオカドリンクぶちまけて帰ったんですよね?」
昨晩ほどではないが、オフィス入り口からバニラの甘ったるい香りが漂う。頭が痛い。
「だって、出張ゲイボーイでタカハシさんがチェンジしたなら、お店の評判にもかかわるし、タピオカぶちまけたりしませんもの」
違う、違うんだ。しかし……、どこから何をどうやって説明すればいいんだ。頭痛は止まない。
その日は結局、不審者がタピオカドリンクをオフィス入り口外にぶちまけたという理由で警察に連絡し、その立ち会いのもと、ビル管理室でビル1階の一つしかない共用エントランスの昨晩の映像を見せてもらったり、そしてあのおしゃれ男子が映っていないことを確認したりして終わった。フクナガさんは、
「えっ、じゃあこのビル内のほかのオフィスの男の子ですか? 彼」
と、妄想を更新させていたが、そうではないことを祈りたい。むしろ本人が言っていたように、タピオカドリンクの化身であってほしい。フクナガさんはそう考えるわたしと一緒に、ぶちまけられたタピオカドリンクを片付けてくれたあとに帰って行った。
それからわたしはテイクアウトの夕食を買いに、ひと気のない街に出た。今日も人がいなさすぎて感染しようもなさそうだ。
予約しておいた焼肉弁当を片手に下げオフィスに戻ってくると、またしても隣のオフィスのドアノブに何かがかかっている。大きさからしてそれもなにかの弁当のようだったが、わたしはなるべく見ないようにしてオフィスに入った。今回はどこにも連絡はするまい、と心に決めながら。
※「月刊暗黒通信団注文書」2020年10月号初出、一部改訂