くるみ割り人形@東京文化会館
わーい、今回もオケボックスの見える席。あの、客電が落ちて、オケボックスが楽譜用ライトと楽器の金色の反射でぼうっと浮かび上がるのを見るのは、ほんとうに心躍る。しかし、今回、心躍ったのもつかの間、前奏で主旋律のオーボエもしくはクラリネットの方のテンポずれで、いささか不安になる。アップテンポの前奏曲でメインのメロディーが遅れ気味って! その後はまあ、凡庸な演奏でしたが、前奏でのそれのような外しは目立たず、ほっとしたけれど。
さて、くるみ割り人形とわたしとのファーストコンタクトは、サンリオの人形アニメ映画のそれだった。そこでは主人公のクララは第一次性長期の少女、というイメージがあり、その後、接したバレエのくるみ割り人形の情報でも、クララの設定はそのような感じだった。
が、この日のくるみ割り人形のクララは、ちょっと違った。まず、クララとくるみ割り人形が、ポリーナ・セミオノワ(ベルリン国立歌劇場バレエ団プリンシパル)と、ウラジーミル・マラーホフ(同バレエ団芸術監督)という、芸も華もプロポーションも、なにもかも秀でたふたりだったため、見た目からしてクララはほかの子ども役&人形役、ねずみ役のダンサーと等身がちがう。
第二次性長期でおとなのプロポーションになった少女が、まだそこを越えていないこども体型の仲間のなかにいるかのように錯覚さえするのだ。もうひとつには、等身もさることながら、バストのかなりあるクララだったことが、彼女を従来の設定である第一次性長期の少女に見せていない、ということがあった。
そのため、今回のポリーナのクララでは、わたしのなかではその筋で妄想が展開、人形のペアが踊る場面でも、「夢の中で踊る人形もペアというのは、やはり第二次性長期を越える少女の見る夢だからなのでは…」などと思って見ていた。
なにしろクララのネグリジェ姿と来たら、こどもの寝巻きというより、完全にナイトドレスにしか見えないのだ。50歩ゆずってもジュリエットのネグリジェ姿というか。
ところで、わたしがこういう妄想に襲われたのは、一方でクララは第一次性長期の少女、というイメージで記憶していながらも、ホフマンの原作のほうのくるみ割り人形や、コッペリアの原作である「砂男」のような彼のほかの作品を読むにつけ、「くるみ割り人形という話は、少女が大人になるまでにいくつか経験する通過儀礼の、どちらかといえば成人に近いころの話なのではないか」と浮かび上がってくる思いを、どうしても拭い去ることができなかったせいだと思われる。
ちなみにホフマンのくるみ割り人形は、クララは神隠しのように現実世界から旅立ってしまうという、ちょっと不気味でSF(すこしふかしぎ)な結末。