目の芸術、耳の芸術
カトリック文化に属する芸術は「目の芸術」であり、プロテスタント文化に属する芸術は「耳の芸術」であるといわれることがある。この要因はプロテスタントがキリスト教より派生することになった宗教改革そのものに遡る。
カトリックが世界の目に見えるものをすべて神の表象ととらえ、絵画や図像で表そうとしために図像学という様式が発達した(図像学=イコノロジーに関しては、『イコノロジー研究』〈上〉〈下〉 エルヴィン・パノフスキ著 ちくま学芸文庫 を参照のこと)。画像リンクしてある本の表紙にコラージュしてある絵画たちのように、この様式に則って描かれる宗教画は、花言葉によって描かれている聖人を賛美するために、季節も土地も無視して聖人の足元に花が咲き乱れ、聖人の性質を表すマークとしての動物が描かれた。見えるものに神の御業を托すというこの表現方法は、衣服の色にまで反映された。
こうした図像学はラテン語が読み書きでき、大学に入る資力がなければ読み解けない権威主義的な芸術様式だったため、民衆のための宗教を標榜したプロテスタントの文化は、カトリックのややもすれば過剰な装飾様式を拒絶することからはじまった。
ごく単純に言えば、カトリックの、時にはヨーロッパ人の美の基準に合わせ金髪で表現されるマリア像や、あからさまにアーリア人なイエス像などの偶像崇拝とご当地主義のミックスへの警戒と拒絶にはじまる教会装飾へのプロテスタントの否定は、そのままカトリック的な写実主義的視覚芸術への無関心へと繋がっている。
装飾に関してこのような性向を持つプロテスタントの教会建築について、神学者パウル・ティリッヒは『芸術と建築について』で次のように示唆している。
「人々が世俗的生活の真っ只中において聖なるものを黙想できるとそこで感じるような聖化の場所を創造するのが、教会建築家の仕事である。教会が人びとの通常の生活や思考から引き離されたものであると感じられてはならない。そうではなく、それ自体を人びとの世俗的生活へと開き、究極的なものの象徴を通してわれわれの日常経験の有限な表現の中へ広がっていくようなものであると感じられねばならない」
ティリッヒは現代のプロテスタント教会のためにこう述べているのだけど、これはプロテスタントだけではなく、カトリックの教会にも言えることだ。このような教会建築論にカトリック教会が触れることで出来上がった教会としては、ル・コルビュジエのロンシャン礼拝堂、丹下健三のカトリック関口教会、安藤忠雄の光の教会を思い起こしてみてほしい。
と、目の芸術に関わることばかりになってしまったが、耳の芸術に関しては、読み書きができない大衆にとっては内容がわからないだけによけい神秘的に聞こえる、ラテン語の聖句を述べるという密教的な目的のために発達したカトリック聖歌と、ドイツプロテスタント音楽を完成させたバッハの、言葉はなくとも天に近づいて行こうとする音のきざはしを聞き較べてもらえれば、両者のスタンスの違いがわかるだろう。つーか、わかれ(笑)。