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霊長類ヒト科アゲアシトリ属ジュウバコツツキ目の妄想多め日録

お盆と東京

お盆シーズンで朝の通勤電車が空いている。今年はETC1000円があるのでどうかわからないが、ただスムーズに都心から海岸部の景色を見たいがために首都高を走るのもこの時期ならではだ。


この人気の少ない東京の姿、わたしにはとても懐かしい景色だ。幼少期に住んでいた地域が老人居住率が高く、常に道のひと気が少なめだったせいだろうか。


丘の中腹の二階家の窓からは首都高が見えていたが、距離があるので渋滞までは確認できず、ただ潮騒のような車両の通行音がいつも押し寄せていた。


幼いころのわたしは、世界が100人の村だったら、ならぬ、世界が10人の区だったら、少なくとも4〜6人は老人で、親を含む大人は3人、教会の土曜学校の先生くらいしか接点のないお兄さんお姉さんは2人、自分やまだ赤子の弟を含む子どもは1人という構成なのだろうと思っていた。


なにしろご近所で付き合いがあるのは同居の祖母の古くからの友だちであり、よそ行きはその中の一軒で仕立てるか、そのころのわたしにとっては老人の街だった銀座のサエグサかファミリアに見に行っていたし、丘を降りて神田川を跨ぎ、首都高をくぐった先の商店街も、その手前のかかりつけの医院も、主客ともにいるのは老人ばかりだったからだ。


永久歯が生え揃うが早いか、矯正のために渋谷パルコ斜め向かいの歯医者に連れて行かれるようになった。それ以前に知っていた街は、通っていたお受験塾 (と、その帰りにしばしば寄った伊勢丹!)のある新宿だった。この2つの街を知ることで、自分の住む町が老人が多いだけなのではないか、と思うようになった気がする。


今にして思えば、道で遊んでいる際に門柱に寄りかかって見ている近所の老人たちは、彼らだけで住んでいたわけではなく、若い世代は仕事や学校やらに行っていて姿が見えなかっただけなのだろうが、母も祖母も専業主婦だったわたしにとって「おかあさまやおばあちゃまがひるまおうちにいない」という状況が図りがたかったのだ。


しかしそれでもあの町は老人が多かったのではないかと思う。かつての自宅至近ではないが、丘を降りて隣の区に入ってもその感覚はあった。今は取り壊され、高級そうなマンションが建っているが、逆上がりの練習のために通った鉄棒のある公園近くにあった同潤会小川町アパートには、建物ごと加齢臭がかすかに漂っていたし、そこから神楽坂に足を伸ばしたときも、TVで見る京都のそれとは違う、あきらかにとうの立った芸者にうっすらとした恐怖を感じたこともある。あの、真っ白ながら皺のよれた頬と、真っ赤に塗られた唇から覗く黄ばんだ歯が怖かったのだ。