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霊長類ヒト科アゲアシトリ属ジュウバコツツキ目の妄想多め日録

ハンブルク・バレエ団『リリオム−回転木馬』@東京文化会館

前日にゲネプロ見学を経ての鑑賞。本番で衣装がついてようやく何が起こっていたのかわかった場面もあるし、「なるほどゲネプロと本番では役への入り込み度が違う人もいる」というのもわかったしで、おもしろい体験でした。

ただ、ゲネプロで長いなー、と思った前半の、コジョカル演じるヒロイン・ジュリーの友人カップルのパ・ド・ドゥと、ジュリーとリリオムのパ・ド・ドゥは、衣装がついてメイクもしっかりの本番の本気の演技でも、やっぱり長い!

もっとも、パンフレットのインタビューで振り付けたノイマイヤー自身が「彼女とリリオムによる長いパ・ド・ドゥ」と言っているので、本人的にはあの長さには意味があるのだと思うけれど……。

終演後、本公演を一緒に見た夫の人とは
「クラシックのパ・ド・ドゥと同じくらいの存在感を示したかったのでは?」
「いやでもジャズエイジの話なんだし、もっとスピーディなほうがいいのでは」
「もしかしてミシェル・ルグランのすばらしいスコア(本当にすばらしい。ルグランが宛て書きしたという北ドイツ放送協会(NDR)ビッグバンドの舞台上での演奏も!)を削りたくなくてああなったとか?」
といろいろ話し合いました。

また、ノイマイヤーがhigh-educatedな人だからなのか、そうでない人へのファンタジーを感じてしまったところも。たとえば作品の核となるヒロインへのDVを、やはりパンフレットのインタビューでノイマイヤーはこう言っています。

それにもかかわらず、ジュリーに対する粗暴さは、彼の魅力なのです。なぜならば、粗暴さは、彼にとってジュリーが、どうでもよい存在ではないことを意味するからです。彼は十分ジュリーのことを構ってあげられないことに対して憤激し、自分のことを無力だと感じます。それが彼を激怒させます。それが私の心を動かすのです。

こういった発言からすると、ノイマイヤーは男のDVについて「家庭内でだけ甘えられる、素顔を見せられる」というようなファンタジーがあるのかな、と。でも見せた素顔がDV男だったら、それがその人の地なんですけどね……。ちなみに夫の人曰く「あの人のDV気質、死んでも治らないんだね……」。

そして大恐慌時代の職安前でのシーン、職を求める男たちが映画『ウエスト・サイド物語』かのように華麗に踊るシーンがあるのですが、いや、そこは職を求めて並んでるんだから、そんな元気にしかも秩序だって踊れないだろ、と思ってしまうのです。むしろそこは、重力で地面に引きつけられるように、たとえばマッツ・エックの作品に見られるようなダンスがふさわしいのでは、という違和感。そういうところにも、「活気あふれる民衆」みたいなノイマイヤーのファンタジーを感じてしまうんですよね。

でも、ジュリーの墓場でのジュリエットを思わせる寂しいリリオムの葬送のシーンや、ゲネプロですら泣いてしまったラストシーンで一瞬、その違和感は消え去ります。特にラストシーン、幸薄そうなジュリーの、粗野な亡き夫に対する表情がすばらしい。ちょうどいま、東京文化会館の向かい側の国立西洋美術館で開催中のカラヴァッジョ展の『法悦のマグダラのマリア』を思わせます。

そしてその後に訪れる寂寥。コジョカル演じるジュリーの、ただ座っているだけなのにあふれ出る哀しみとある種の愛とがひたひたと舞台から客席に打ち寄せてくるような終わり方。ある意味、フェリーニの映画『道』のジェルソミーナとザンパノが救われて終わる話のようでもありました。

ときに難解と言われる作品を作るノイマイヤーが、原作付きとはいえ、これほど「わかりやすい」振り付けをするというのは驚きでした。しかもウェブに残る動画や過去の公開時のレビューを見ると、手直しを続けているみたい。

DV描写や職安に並ぶ人々のダンスが紋切り型に属しているように見えても、やはりあの年齢でも新たな領域に挑戦し続けるのはすごいな、と、そこにも感動した舞台でした。