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【気になる言葉】運命の人

学部生時代、好きな人のことを「あの人はわたしの運命の人だと思うの!」とおっしゃる先輩がいた。

この「運命の人」の指す内実が、わたしにはよくわからない。好きな人が好き合うべき運命の人なら、嫌いな人も嫌いになる運命の人なのではないのか? というのがわたしの「運命」についての考え方だからだ。

なので、小説とかマンガとかドラマとかの悲恋もので、「あの人はわたしの運命の人じゃなかったんだわ……」的なシーンがあると、「いや、それは出会って別れる運命の人だったってことなんでは?」と思っていた。っていうか、今も思っている。

なんなら先輩がうっとりと「運命の人」論をわたしに開陳している道端を、前後に幼児用籠を取り付けた自転車で駆け抜けていくお迎えサラリーマンは「すれ違うだけで出会わないままの運命の人」なんでは? とも思っていた。

だって、「運命」がうまくいく出会いだけをもたらすとは到底、思えないじゃないですか? 禍福は糾える縄の如し、ともいうし。

 

当時は高校のときに始めたチベット仏教の勉強から、運命というのは結び付きの強い人間関係ばかりを指すのではないのでは? と思っていたことも関係する。

それでは仏法を聞くにあたって、どのような動機を持てばよいのでしょう。まず空のように無限に存在する衆生たちは、自分の前世で一度は父であり、母であったことがあると想起します。彼らは私の両親であったとき、私のためにあまたの苦労をしのび、私を養うために悪業をなし、その結果、八熱地獄や八寒地獄に落ちて暑さ寒さの苦しみや、あるいは餓鬼の世界に落ちて、飢えや渇きの苦しみを味わっています。動物に生まれたなら、無知におかされているゆえに、人に使役される苦しみを味わいます。六道輪廻の中のよりよい世界、人・阿修羅・天界に生まれれば、多少の幸福はありますが、この幸福は有漏(煩悩に汚れた)の幸福であり、無漏(煩悩がなくなった境地)の幸福でないため、たちまち失われてしまいます。一時の有漏の幸福ではなく、恒久につづく無漏の幸福を求めなくてはなりません。

チベット仏教ニンマ派高僧トゥルシック・リンポチェによる「37の菩薩の実践」Part1「仏法を聴く前に正しい動機をもつ」より)
http://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index1.html

 

これだと「運命」の相手は「道端を、前後に幼児用籠を取り付けた自転車で駆け抜けていくお迎えサラリーマン」どころか、人間以外にも、生活空間に生きる有情のもの(攻撃されると痛いとなるような感情がある生き物。蚊や蠅も含む)すべてをも含むことになる。

そうなってくると、実家の庭に迷い込んできた嗅覚の効かないバカ犬だって飼わなきゃと思うし、夜中に部屋の外の木に止まっていた鳩のつがいの前世も気になってくる。そして、タイプど真ん中の好きな人にのみ「運命」という言葉を使うのは、憚られるようになってくるのである。

 

夜長姫と耳男 (ビッグコミックススペシャル)

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それと、わたしにとって運命とは、小学四年で『夜長姫と耳男』に出会ってから、よいもの(たとえば相思相愛の「運命の恋人」とか)を与えてくれるものというより、児童虐待やいじめから逃げるため、抗ったり切り拓いたり闘ったりするものになったというのも関係しているのかもしれない。

好きなものは咒うか殺すか争うかしなければならないのよ

 

 

お題「これって私だけ?」