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霊長類ヒト科アゲアシトリ属ジュウバコツツキ目の妄想多め日録

『地球史の中のチベット』@常圓寺

用事と用事の間で前半の講演部分だけは聞けそうだったので、チベット文化研究所主催の中沢新一先生の講演会に行ってきました。お寺に着いたら、ちょうどペマ・ギャルポさんがいらしたので一緒に入場するかたちに。中沢先生のお話が予定より少し延長して後、ペマさんの感想、そして意見交換が全部休憩なしで続いて、仕方なく中座して次の予定へ移動しました。

中沢先生のお話は、先生の今後のお仕事の骨になる部分のデザインについてのお話で、チベットモーツァルト×アースダイバー+αで、たいへんわくわくする内容でした。それだけに元々の予定の関係で、中沢先生のお話に触発された会場のみなさんとの質疑応答や、中沢先生とペマさんとの対談などなどを聞く時間がなかったのは残念! あと、ずーっとスマホでメモ取ってたら、スマホを持ってる左腕が痛くなりました(涙)

というわけで、以下はそのメモを元にした今回の講演メモです。後半に行くに従い集中力が落ちて、メモも粗雑になっていったので、話の通りが「?」なところがあると思いますが、そこは「メモ」ということでご容赦を!


ペマ・ギャルポさんからの中沢先生紹介
今日の会場にいらしている方には、いまさらご紹介するのも余計でしょうが、と言いつつ、中沢先生は、それまで日本では主に中国経由の文献で知られ、ラマ教と言われていたチベット仏教、主流派の権威主義的なもののみの知識を、自身でチベットに行って体得したものを初めて知らせることで刷新してくれた方で、1970年代からのお付き合い、などの馴れ初め話をうかがうことができました。


●中沢先生のお話
チベット研究を始めたころ
ペマさんのお話を引き取って、チベットに行く前からのペマさんとのお付き合いについて。チベットの主流はではない仏教の研究をしようと思い立ったものの、チベット文化圏のどこに行けばいいのかわからないし、チベット語もわからない。とにかく伝手をつかもうと、日本にいるチベット人を訪ね歩き、とうとう若いころのペマさんを探し当て、チベットでお坊さんになりたいと訴えた。最初は本気にしてなかったペマさんだが、結局、何人ものゲシェ(チベット仏教のお坊さんが研鑽を重ね、試験を受けた末に得る宗教学博士に相当する名称)あてに紹介状を書いてくれ、そのなかの一つがケツン・サンポ・リンポチェだった。

しかし、最初からケツン・サンポ・リンポチェのところに行こうと思っていたのではなかった。別のゲシェを訪ねて一月にヒマラヤに行こうと言われ、いくらなんでも寒いのでカトマンズで待っていたところ、滞在していたホテルの隣が別のリンポチェの家だった。声をかけて仲良くなり、いろいろ相談しているうちに、ヒマラヤより、隣のリンポチェの伝手のあるケツン・サンポ・リンポチェのところがいいということになり、紹介してもらってそれ以来、師事することになった。

さて、今日は現在進行中の学問を話す予定。なぜそういう話をするか? チベット仏教学会と縁なくすごしてきた。チベット仏教学会は主流派のゲルク派研究者ばかりだけれど、自分はニンマ派研究だったから、接点がなかった。主流派ということはつまり、権力側ということで、非主流派へは上から目線。権力中枢と一体になった宗教は宗教性の革新から離れてしまうと思ってる。自分はもともと権力がきらいだったから、主流から外れているニンマ派を研究しようと思った。ニンマ派は非主流派であるがために、何度も弾圧されている。ニンマ派のお坊さんはラサに行っても相手にされない。リンポチェリンポチェと持ち上げられたり慕われたりなんてしない。

★時代背景
自分がチベットに行き始めたころは、世界中でチベット研究が隆盛し始めたころ。1959年にチベットが中国に侵攻されて難民が国外に出た時、何人ものラマ僧が日本にも来て教えてくれた。その中にケツン・サンポ・リンポチェもいた。しかし、それでも密教は教えなかった。大蔵経を教えてくれとは言われたが、密教へのリクエストがなかったから。あとになってケツン・サンポ・リンポチェに聞いたところ、ヨガのやり方を教えたのは巣鴨老人会での一回だけだったとか。

70年代は、ヒッピーたちや、ハーバードの大学院を捨ててインドに来たサンスクリット語研究のエリート学生がネパールのチベット仏教寺院で修業したりしていた。難民としてアメリカに渡り、西海岸でやさしい言葉で密教の講義をするリンポチェもいた。残されている記録を見ると、とてもポエティックでファンキーな講義ですばらしい(チャンパ・リンポチェのことか?)。ニューヨークにもチベッタンセンターができ、ドゥンジュン・リンポチェという良いラマがいらした(Dzogchen Khenpo Choga Rinpocheのことか?)。このころは同時期にカスタネダのペヨーテ経験の本を著したりと、スピリチュアルな世界への機運が高まっていた。

そのころの人たちが21世紀、2005年くらいに続々と本を書き始めた。ニンマ派は特にすごかった。カギュ派のテキストや歴史研究も盛んだった。しかし、今はその動きが鈍くなってきている、止まってきている。理由はその著者たち、紹介者たちが50-60代になり、大学の先生として地位を得て、冒険心を失ったからではと思っている。

こうして翻訳・解読・註釈は出た。しかし、どうやってその先へ行くのか? という行き詰まり感がある。日本でも歴史研究は続いているけど、宗教研究・思想研究はなくなっている。宗教理解を新しいレベルに持っていく研究が必要なのに。密教の部分は頭がいいだけの人の整理した文献だけではわからない。結局、重要なところは口伝なので。

★あたらしいチベット学の方法論の必要性
もう一度チベットの学問を立て直さないと、と思っている。ジーン・スミス(E Gene Smith、TBRC(Tibetan Buddhism Resource Center)の設立者)のチベットデータの完成で、アメリカではチベット学は高止まり。日本は低止まっている。なぜか? 英米文学などのメジャーな学問だと、すでに何千人もの優秀な先駆者がいるけれど、チベットに限らず少数言語研究者はすぐお山の大将になってしまう。それも低止まっている原因。だから、これからそういうマイナーな学問を目指す人は、どうか目標を高い、高いところに設定してほしいと思う。

さて、Googleマップでのように、接近から俯瞰に、そして俯瞰から接近に瞬時に思考を切り替えることができる知性が出てきた。これはヨガのやり方でもある。データを組み合わせて新しい知識を形成するには、俯瞰する視点を取り入れる必要がある。チベット学にこの視点を導入する必要があると思っている。

★いつ、どのように、どこから人類はチベットへ?
ポン教に伝わるのはインド哲学が伝わるより古いチベットの昔からの伝統。チベットに仏教が伝わった年代はわかっていて、聖徳太子と同時代。日本はその前に邪馬台国古墳時代がある。聖徳太子の語っている知識は仏教の知識だけではなく、日本の古い知識が混じっている。チベットも同じで、仏教が伝わる前の知識でポン教は形づくられている。ニンマ派も、そこに仏教を接合することで出来上がっている。今日はそういうチベット古代学を喋りたい。

チベット学の新しい焦点をどこに据えるべきか? アースダイバー的に、一万年を基礎単位で考えてみよう。

(プリントにある『日本海はどう出来たか (叢書・地球発見)』能田 成:著からの「インド亜大陸の北上とユーラシア大陸への衝突」の図を見ながら)1600-1900万年前に日本ができた。それまではユーラシア大陸にくっついていた。そこから離れた原因がチベット。島だったインドがユーラシア大陸に接近、このプレート移動で陸地が一気に7000メートル盛り上がり、ヒマラヤができた。プレートで押されたはじにいた日本が海に弾き出された。アジアにとって重要な川は、ヒマヤラとチベット高原ができた皺寄せで形成された。

さて、ここに人類が住み着いたのはいつ? どうして高原に入って行ったのか? ネアンデルタール人のあとにでてきた人類は、気候変動を嫌ってアフリカを出る。一方はヨーロッパへ、一方はインドへ、内陸部の森林ではなく、海岸ベリに船で移動し、大河の河口を見つけると遡って住み着くというのを繰り返していった。

(プリントにある『人類の足跡10万年全史』スティーヴン オッペンハイマー:著からの「Y染色体系統の最初の中央アジアへの進出」「LGM時の中央アジアからの遠心性の移動」の図を見ながら)彼らはバングラデシュからメコンやサルウィンを遡って行く。複数の川から遡っていくと現在の雲南省、ミャオ族のあたりで合流する。そのころはまだ言語が共通だった。ここで人類は初めてのコメつくりをはじめたとも言われている。

その後、大理からナシ族のいるところを経由してチベットに入り込んで行ったのが、最近のDNA解析でわかってきた。チベット人はインドのドラヴィタ、タイ、ビルマと共通の先祖を持っている。だから、ビルマ語やタミール語は深い関係がある。

もう一つはインダス経由。今のムンバイから北上。ハラッパモヘンジョダロ文明を作ったりしてチベットへ移動。この文明はアフリカからヨーロッパに遠征した騎馬民族系の人々に滅ぼされる。

チベット文明のおおもとを作っているのは、ビルマ経由でウツァンへ移動していった人たち。チベット人のベースを作ったのは東南アジア系ではと思われる。彼らは半農半漁の生活形態。内陸では漁業ができないので、狩猟民になり、チベットへ。ラサにいる人たちはメンタリティがお百姓。チャンタンやカムの人たちは遊牧民

ではチベットに最初に入った人たちはどんな宗教を持っていたのか? ポン教などより前のそれは、雲南の蛇と龍の宗教におおもとがある。山であり雷である蛇が中心的な神。三元論の父母子の考え方。トンパ文字での蛇祭りにその起源がある。

チベットの宗教の一番深いところには蛇がある。チベットの地方寺院で寺本婉雅先生(たぶん)が見つけた「十万の白い蛇」の翻訳がある(宝蔵館から?)。大地の下に龍がたくさんいて、これは山の神。これへの儀式のやり方が克明に書かれている。これは東北チベットの文化だが、ナシ族のトンパ文字で書かれた儀礼書に残る内容より詳しい。

チベット人の修行場のロケーション
(プリント二枚目の風景写真を見ながら)チャンタン高原の最大の聖地、湖と山をお祀りしている。その周りには何百という洞窟がある。そこで祭礼を行う。湖の底にいる龍に女性の神様が乗っている。山の男性神と夫婦。山と湖をセットで祀るというのはアフリカから到達した人たちの宗教のベースにあるもの。オーストラリアでも池に住む虹の蛇が立ち上がる、かまくびをもたげることで雨をもたらす。日本では諏訪でも同じ。

洞窟は生命が産まれる場所。入り口に動物がたくさん描かれている。男性神と女性神と洞窟の三者によって生命が生み出されるという考え方。日本では神功皇后の神話に見られる、応神天皇が息子、父は影が薄いがこの三者が三点セット。キリスト教でも三位一体の考え方がある。

チベット世界のベースになってる考え方は、DNA解析やいろんな手段で、文献を突破しないとわからないこと。それによって見えてくるのはアジアはもともと一つということ。

チベットの聖地はだいたい同じトポロジー。修業場の両脇に山があり、水が真ん中から流れ出ている。大地の女神がたくさん住んでいる場所。図像学的には、ダキニがこちら側に向いて横たわり、脚を開いている。なので、奥の山はダキニの下腹部ということになる。実はチベットだけでなく日本の寺も同じ地形に建っている。

ここで行なわれる瞑想は、自分の意識を胎児のように生まれ変わらせるもの。その目的は壺、つまり子宮のなかに入った胎児のような心にたどりつくこと。道教の、童子が壺に入りこんでいる、というのと同じ。意識を原初状態に戻し、それを光に表したり、熱に変えたりというのがゾクチェンの最高の境地。それが実現できるのは、ダキニの産出力の場と考えられている。

こういう場所での修業は、仏教の前から行なわれていた。洞窟で行なわれていたそれは、ゾクチェンでは暗黒瞑想と呼ばれ、7日〜21日間、真っ暗な部屋で内的な体験を持つもの。ニンマ派にもあるが、ポン教にもある。後者は新参をいきなり真っ暗な部屋に入れ、そこから修業が始まる。ニンマ派は逆に修業の集大成として行う。最初はポン教のやり方は乱暴だと思ったが、こちらのほうがチベットの古いやり方を元にしているのではと思えてきた。

ポン教はまず真っ暗ななかで光を見せるところから始める。チベットの場合、なぜ洞窟での修業が好まれたのか? 仏教以前のもっと原子的なやり方に基づいているのでは? 洞窟から生命が生み出されるのと、暗黒瞑想で原初の心がもたらされるのは、同じととらえられていたのでは?

そして、インド大陸がぶつかってできたところにダキニの聖地がたくさんある。チベット人密教の勉強ではそういうところに行って修行している。

★アジアの宗教思想の流れを俯瞰で見る
モヘンジョダロはインドーヨーロッパ語族に滅ぼされた。滅ぼした人たちはイランからやってきて、バラモン教を置いた。彼らの宗教では神は天空にいて、人間から離れている。この宗教によって蛇の神様を排除しようとしたが、バラモン教はできなかった。それをのちに取り入れてヒンズー教へと変容していく。

カシミールにはインド人が入って行けなかった、ドラヴィタ系の系統が濃厚に残っている。ここでシヴァを中心にした山の神の宗教、密教タントリズムが大発展を遂げた。ここではありとあらゆるものを3で考えていく。仏教の三を使った分類法はここに源がある。

ガンダーラは仏教の主流だったが、その奥地のウディヤナ(Oddiyana)はカシミールの影響を受けた密教が発達し、ここからチベットにたくさんの先生がやってきた。チベット人はもともと自分たちの持っていた宗教と、ウディヤナから来た仏教に近いところがあると気づいていたと思う。華厳経とゾクチェンの考え方はだいたい同じ。ヒマラヤではだいたい同じところにゆきついていたと思われる。このように、数万年のスパンで宗教が分岐し、その先で形成されていく。

これからはインテルサットくらいに俯瞰でチベット仏教を見ていきたい。それには仏教以前の人類の思想を、数万年単位で見ていかないと本当の姿はわからないのではと思っている。いわゆる学者の文献研究には限界がある。高次元のものをスライスした概念を使って矛盾のないようにまとめるものが研究書だが、しかし、言語、論理能力などには限界がある。

絵画は画家のインスピレーションをわずかな画面に平面的に表現する。そこからこぼれ落ちるものは? 宗教研究も同じ。本を書いているだけでは、この世界の多次元性は理解できない。仏教の教えはそのことを言ってきた。文字は概念の切り出しを行うが、体験すべき原初の心は概念からはこぼれ落ちる。

それを考えると、宗教の巨大な流れの中では、本を書くというのは小島のようなもの。また、宗教の修行上で、ほんとのことは書き残さないのが当たり前。数万年にわたる人類の思想を保存した上で仏教で覆っているのがチベット仏教、とくに密教。その真髄はトゥルクに伝えられているはずだと考えている。