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霊長類ヒト科アゲアシトリ属ジュウバコツツキ目の妄想多め日録

やる側とやられる側は常に地続き

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2015年に出版された『サリン それぞれの証』を読んだ。著者は本の雑誌社と縁の深い木村晋介椎名誠の「東ケト会」シリーズを読んでいた者にはキムラ弁護士として知られる。

 

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この本を通勤中の地下鉄で読んでいると、ぞわぞわと怖くなってくる。というのは無差別テロをやる側やられる側に明確な差などなく常に地続きだと、様々な立場からの証言に思い知らされるからだ。

ただ、オウムの場合、高学歴の幹部は素直な優等生という性格が取り込まれる一因だったのではと思えてならない。そうならないためには仏陀の「師の言葉であっても検証に検証を重ねなさい」を実施し続けるしかないのでは。キムラ弁護士が、時には自らも体験して、オウム信者が取り込まれた要因の神秘体験を検証するくだりに、そう思った。

そもそも麻原の「超能力者を目差す者がまず最初にクリアーしなければならないのが、クンダリニー(霊的エネルギー)の覚醒である」をおかしいと思わない点で素直すぎる。超能力者はそのまま覚者を指すわけではないし、神秘体験は修行の副産物にしかすぎないからだ。

わたしが高校の頃、実家にオウム真理教の前身・オウム神仙の会の勧誘で、地元のエリート大の女子学生が勧誘に来たことがある。まだ痩せていた麻原の空中浮遊の写真の載ったチラシを見せて自慢げであった。家の宗教はキリスト教ながら、宗教オタクでチベット仏教ファンの身としては、カチンと来た。

チベット密教では空中浮遊というのは修行の副産物でしかない。あなた方の教祖が空中浮遊した修行で救われた衆生はあったのか」

気付けば問い詰めていた。女子学生の顔からは笑みが消え、恨みが目に宿った。当時、地方の高校生が独自に比較宗教研究をして理解していたことを、彼らは理解していなかった。恨むならそんな自分を恨み省察すべきだった。

宗教の修行での神秘体験は、それによって自分がそれまでの思考の枠を超えたという分水嶺でしかない。超えることでより大きな視座で衆生のために祈ることができるようになる。同時に、自身も常に衆生の中にいる、超越していないという自覚を失わないでいることが必要なのだが、オウムにはそれがない。

何のために、誰のために修行するのか。それについて自分自身と徹底的に対話しなければ、どんな神秘体験も宗教的な意味をなさない。

仏教だけでなく、キリスト教も聖書でこう語っている。

「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしい銅鑼、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」