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暑い日が続いて

◆気温と神経

ふと凌ぎ易い日が訪れると、それまで暑さと対抗するために搾り出してた気力を急に引っ込めるわけにもいかず(なんたって凌ぎ易いと言ったって暑いわけだし、明日からまた猛暑かもしれないし)、神経が手持ち無沙汰に感じることがある。

そんな感じはつまり感傷ということで、秋なら最初の木枯らし、冬ならこめかみが痛くなるような日に射す陽光とかなど、近年誘発されるポイントが増大中だ。ひとは加齢とともに物理的な神経のレベルから、感傷を感じるシナプスを培養しているんじゃないかと疑いたくなる。

さて、暑い日が続くということは、確実に時間は過ぎて秋へ、そして冬へと向かっているということで、それはとりもなおさず、わたしの人生も夏を過ぎていくということだ。もちろん、だれの人生だって前にしか進まないわけだけど。

たとえ、毎日同じ繰り返しに見えようと、その停滞は見せかけ、あるいはそのように見ることによって、ほかのなにかから目を逸らしたいという無意識の願望の為せるわざだったり、あとから振り返って見れば後退しているかのように感じた日々は、絶対必要な蛹の期間だったりする。

でも、このグループ、SPANK HAPPYの岩澤瞳期に関しては、蛹から飛び出た途端、植物の生長や砂漠の風紋を記録した超高速フィルムみたいに、あまりにも早く去ってしまったという気持ちが消えない。それは、このあっという間の岩澤瞳期が、このグループの次のステップだったなんて思いたくない、というところから来ているんだけど。

どの曲も、というより、曲をひとつひとつ、聞き進むごとに、感傷的な気分になるのは、その活動が80年代的なものへのオマージュだった岩澤瞳期のこのグループの終わりが、同じく80年代的だったABCの終わり、そして来たるべき80年代っ子の夏の終わりを的確に串刺しにするせいだ。

なんていうと「加齢はいやだ、80年代に戻りたい」と愚痴ってるかのように思うかもしれないけれど、トシをとることで急速になにかを失うと同時に、なにかを、たとえば感傷をより深く感じることができるシナプスとか(笑)得ているというのは、それはそれで気に入っている。

やや自虐的だけれども、研究とか結婚とか子作りとか、奮闘したり葛藤したり放棄したりした結果、「何かを得ていない」あるいは「何かを失った」という後悔に裏付けられた感傷というものを感じるのは、ある意味、愉しい。そんなことが愉しい、だなんてことは、奮闘したり(以下略)していたころには思いもしなかったけど。

そして、岩澤瞳期のSPANK HAPPYは、あの、いつかは消えてしまいそうという気持ちを掻き立てる不安定さも含めて、愉しみとしての感傷を引き起こすのに、まさに最適だったのだけど、こうして消えてしまい、残された音源を聞いていると、またあたらしく、感傷用のシナプスが伸びるような気分になる。


ベジャール、バレエ、リュミエール

詳細はのちほど。

ダンサーの背中で、踊るためについたみっちりした筋肉が息づき、弛緩し、憔悴する。

振付家の背中からは、苛立ちと色気と意気が立ち昇り続ける。

ところで“B comme Bejart”が原題なので、「BはベジャールのB」とか思いたい。中身は「ベジャール好みのB:バッハ、バルバラ、ベレル」という側面もあるし。