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霊長類ヒト科アゲアシトリ属ジュウバコツツキ目の妄想多め日録

外食の愉しみには、重いものと軽いものと二種ある。この場合の重いものは中華や会席、フレンチなどのいわゆるコース料理として、ある程度その概要が一般的に認識されているもののことだ。

しかし、軽い外食の愉しみはというと、あまりに多岐にわたりすぎ、その範囲は拡がりこそすれ、狭めることはむずかしいであろう。

たとえば麺類ひとつにしても、デパ地下食品街のミニコーナーで供されるベトナム麺と、夜の街角で供されるラーメンとでは、需要も客層も大きく異なり、おそらく両者を利用するそれぞれの顧客の「軽い外食の愉しみ」イメージは、そうとう隔たっているのではないか。


このように拡散の一途を辿る運命にある「軽い外食の愉しみ」のひとつとして、フルーツ専門店のフルーツサンドイッチが挙げられることに、(それを食す生活習慣にあるかなきかに関わらず)異存のある向きはそうはないだろう。

単なるハムや卵のサンドイッチならば、極論すればコンビニで工業製品的に整然と並んでいるそれで間に合わせることができなくもない。

しかし、フルーツサンドイッチだけは、そういうわけには行かない。あれだけは、店に出向き、軽食を供するにしては過剰に品のよい店員の手ずから運ばれたものでなければ、愉しみにはならないのだ。

たとえフルーツ専門店のフルーツサンドイッチといえども、小箱に詰め込まれ、いつ食されるともしれない幻滅の時間に向け、フルーツを和えた生クリームが食パンに染み込みはじめた時点で、フルーツサンドイッチにおける外食の愉しみは損なわれ始める。

それは、いちごから引き出した赤味とともに、生クリームがパンを侵食していく速度に比例している。これは、とんかつ専門店のサンドイッチと逆のベクトルを示すものだ。


さて、フルーツサンドイッチの一件でコンビニ製品をくさしたとはいえ、外食の愉しみにこれらコンビニ製品が加わる資格がない、などと言うつもりはない。

もちろん、コンビニの食品棚の食物は、どちらかといえば購入して自宅にて食する「内食」の部類として処理されることが多いと思われるが、それ以外に道端や街角を食卓、といって大仰であれば、駅蕎麦のカウンターのごとく変化(へんげ)させうるポテンシャルを有している。

なんとなればわれわれは、夜のコンビニの駐車場でおでんを囲む人々に、江戸の町の屋台に三々五々集う町内の顔見知りたちの幻影を重ね合わせることも可能なのだ。

とはいえ、まだまだ暑いこの季節、ミステリー弁当(手書き・ドクロ付き)は、たとえ工業製品的なコンビニ弁当であっても、とうてい買う気はしないのだが。