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霊長類ヒト科アゲアシトリ属ジュウバコツツキ目の妄想多め日録

ふたつのチョコと四冊の本

チロルチョコ「いちごがっぱい」

三種類のいちご味のチロルチョコが三個ずつ入ってます。ふふふ。

なにが「ふふふ」かというと、いちご大福チョコのサプライズに。


今のところ、ここの一番下にインフォあり>
http://www.tirol-choco.com/3050ensyouhin.htm


◆四冊買って、手元には?

この本『フローラ逍遙』の、函入りハードカバーのほうにはいろいろと想い出がある。そのうちのひとつは、亡くなった母方の祖母とのそれだ。

祖母は、カトリックのウチに生まれ育った東京は山の手のお嬢さんらしく、澁澤龍彦に関して、サド裁判などの風評から「読むに値しない作家」というイメージを抱いていた。

彼女の持つそんな澁澤イメージを打ち破ったのが、わたしが無理やり貸したこの本だった。俳諧を趣味としていた彼女にとって、この本は句作のヒントになったらしかった。とはいえ、その後、彼女にほかの澁澤本を貸したことはなかったのだけれど。

もうひとつの想い出は、現代澁澤チルドレンにまつわる逸話だ。

その男の子は、女子を口説くのに、当時、文庫の出ていなかったこの本のオリジナルをプレゼントすること、4度にわたったという。ふつう、2回めくらいで効果のないことに気付くのではないかと思うが、彼は一途に4度も小道具としてこの本を購入したらしい。

わたしが気になるのは、そんな彼は自分ではこの本を所持していたのだろうか、ということである。あるいは突き返されたこの本が、4冊、彼の本棚に積み上がっていたのかもしれないけれど。


純トロのカカオに向けて今日も鍛錬

というわけでもないのだが、ブラックなのを買った。ちなみに画像リンクはカカオ100%のチョコレート。まだ食べたことはないが、いつかは、と思っている。

ところでこないだ、カカオ含有率は85%のまで経験がある、と書いたがこれは勘違いで、コートドールの86%カカオ「BRUT」がカカオ含有率最高位だった。で、今日はそれと、カカオ77%ながらオレンジ風味、缶を開けると中身は和菓子の吹き寄せのごとく、一片一片がそれぞれ三種類の木の葉をかたどっているハッチェスの「COCOA D’ARRIBA」を購入。

コートドールのBRUTが乳成分0%なのは当然だが、COCOA D’ARRIBAも材料はカカオマス、砂糖、カカオバター、オレンジオイル、香料のみという潔さ。かわいらしくもシックな外見ながら、口に入れるとダークでありながらオレンジ、乳成分がないのでくちどけがおそろしくあっさりしつつ、甘味もほとんどあとを曳かない。型抜き箱入りだとちょっと高価なので、ぜひ板チョコで出してほしいものだ。

そうそう、先日レビューした『普通の恋』にはこんな歌詞がある。


結局チョコレートが必要よ チョコレートが必要よ
あれがないと眠れないの
だからコンビニに行かなくっちゃ
あのコンビニに行かなくっちゃ
最悪な一日の終わりに
いやあ、身に抓まされるなあ(苦笑)


◆メモ

「資本差による階級差」は、実は戦前より戦後のほうが拡大しています。資本による階層間格差というのは、バブルが終わるまでは民主主義の名のもと、見ないフリをすることが一般常識に属する行為だったわけですが、バブルがはじけてそんな余裕がなくなった+アメリカナイゼーションによる規制緩和で弱肉強食がはじまったため、階層間格差がはっきり見えるようになったというのが実情でしょうね。といっても戦後のアジアの国がみなこのような道筋をたどっているのかといえばそうじゃなく、前近代的国家体制から、共産主義国家体制によって近代国家の体を為した国もいくつもあるわけです。

そのような国とそうじゃない国の戦後以降生まれが、おおむね所属成員で同じ超越物に自己を託すという既成の宗教の様式に寄りかかれない、という状況にあるだろうというわたしの推測は、資本化も共産主義化も突き進めると人間を同じ方向に持っていってしまうのではないかという推論に基づいています。

それはどういうことかというと、社会学の祖、エーミール・デュルケムが指摘しているように、資本化が進んだ近代社会において人間は、まず規制の宗教を含む地縁から切り離され、次に職業によって共同体と結びついているという実感をもたらす社会的関係から切り離され、極度に個(人)化していきます。こうなってしまった人間は、他の大勢=外部との連帯から切り離されているので、外部に規範を求める従来の宗教というものに属すことのできないメンタリティを持たなければ、近代社会において生きていくことができません。それができない、つまり近代社会に適応できないことによる自殺を、デュルケムはアノミー型自殺と呼びました(だから資本化は日本のように共産体制っぽい部分と拮抗することで、ある程度、途中で破綻しつつ進んでくれないと困るとわたしは思っているんですが、アメリカによる経済を含む日本への介入が、途中の破綻どころかより一層の資本化の促進になっているのが悩ましいところです。それは資本主義と共産主義に代わる社会体制の新しい考え方が誕生していない、という焦りであって、「幻想引き摺りつつ、昔を思う、みたいな感じ」という過去に向いた態度とはやや異なります)。

さて、しかしこの様式はよく考えれば、共産主義体制においても同じものを見出すことができるはずです。なぜなら、共産主義体制においては、資本主義社会における資本家の建前である「個人による個人のための資本化」ということはすべて、「国家による国家のための資本化」が優先されることによって、「個人による個人のための資本化」は闇に、ブラックマーケットに潜ることになり、このような状況では共産主義体制に属する成員は、国家によって個(人)化を余儀なくされるわけです。単純にして大雑把な例を挙げれば、旧ソ連では「成功する」ということは国家によって技能が認められ、その人間が属する地縁から切り離され、首都モスクワにおいてその技能を国家の発展のためによりいっそう磨かれる、ということだったわけです。

というわけで、外部規範を個人の行動の規制とする宗教より、仏教や、また外部規範を行動の規制にしているように見えながら、内部の規範によって行動する修道院での精神生活が脚光を浴びているのは、資本化と共産主義化の進んだ当然の帰結でしょう。これは、資本化や共産主義化が進む世界においては(これは時間が前に進む以上避けられない事態ですが)「一億総中流階級」などということが建前であって、そうした横並びでは生き残っていけず、それぞれが個(人)化を行わなければならないという漠然とした衝動に伴う結果だとも言えるのではないでしょうか。