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霊長類ヒト科アゲアシトリ属ジュウバコツツキ目の妄想多め日録

ユビキタスな彼女

酷い話だ。惨い話でもある。

階級差が恋愛の物語において有効なモチーフだった時代には「彼とわたしは住む世界が違うのよ…」という状況が描かれたが、それはこの作品の思い/思われるふたりの「住む世界の違いっぷり」に到底、及ばない。この作品ではなにせ、自分が思いを寄せている相手が、自分のその思いを汲んだ言葉を発した途端、自分と相手は決して1対1の関係にはなり得ないことが身に沁みてしまうのだから。

さて、思う相手が自分と1対1の関係にならない場合としては、いくつかの状況が考えられる。

1.思う相手が死んでいる場合
自分以外でも、生きている人間は須らく相手にコミットできない。
つまり、占有もできないが、他者に占有されることもない。

2.思う相手が自分以外の人間と1対1の関係である場合
現実にはありえないとしても、人間の気持ちは変わるものなので
生きている以上、相手が自分を振り向く可能性を持つことができる。

3.思う相手が人間の範囲を超越した存在の場合
占有もできないが他者に占有されることもない。
しかし、自分と同じく他者も、偏在する相手にコミットできる。
また、かつて相手がそうだったように、人間の範囲を超えた超越的存在と融合する方向にナンパされる可能性を、自分も他者も持っている。

1.の場合は存在しないということにおいて諦めがつくし、2.の場合は悪あがきすることも、諦めることもできる。しかし、3.の場合は? この映画のように、思う相手が偏在する存在であるがゆえに、一所において占有はできず、しかも、恋愛におけるそうした状況と願望を、すでに価値判断基準のなかに持っていない相手への思いを諦めることができない場合は? 

たとえば、キリスト教において「偏在する(ユビキタス)存在」とされる神が、なんらかの奇跡・秘蹟を通じて信者の前に現れたとしたら、それはありがたいことだろう。信者は、「わたしの神よ、わたしを見捨ててはおられなかったのですね」と思うだろう。逆に、たまさか現れた神に対して、「神よ、なぜ常にわたしだけの神でいてはくださらないのですか」などと思うヤツは、ほとんどおるまい。

しかし、自分の思う相手が偏在する存在であって、たまさか自分の前に存在を現しても、それをありがたいとだけ思うということは、人間対人間の恋愛感情においては困難なことだ。むしろ、こんなにも思っているのに、たまにしか現れない相手を、恨めしいと思うほうが普通だろう。

と、言ったら、連れには「Mmcは独占欲が強すぎるんだよー!」と言われたが、しかし、こういう心境だからこそ、彼は、彼女が去るとき、見送らなかったのではないだろうか。そして、だからこそ、印象的に流れる謡は、恨み節なのではないか。

酷い話だ。惨い話でもある。

と、ぶつぶつ言っていたら、「それを言うなら前作の終わり方がすでに酷い」と連れは言う。そうなんだけどね、それを言うならその前作の酷い部分をだめ押し、って感じだったなあ。状況として、これ以上の悲恋、というものは考えられないしね。

というわけで、切なくなりたい方は、前作の『攻殻機動隊 GHOST IN THE SHELL』をレンタルなどして見てから、できうる限り大きいスクリーンでご覧になることをおすすめします。