映画にしかできないこと
そのひとつに、出来事のテキスト化がいかに杜撰か、思い知らせることがある。
映画は、せりふ自体に出来事のテキスト化を含む。秀逸にテキスト化されたせりふが映像と音楽、物音たちと協同しあう饒舌な映画は、ものごとを言葉だけで再現することの無力を、まさに「見せつける」。
まだ半分くらいしか見ていないけれど、ゴダールのこれはまさにテキストの無力を感じさせる、そういう映画だ。この映画が見せつける音つきせりふつきの動くブレッソン写真集みたいな夜のパリのヘッドライトの群れ! カラーに切り替わって、紅葉の下、ゴッホやマチスみたいな車道との色! そこで交わされるレジスタンスや、国民性に関する短いせりふたち!
で、その半端な経験をなぜ今書きとめているかというと、無力だと思い知らされていながらも、それは今の瞬間だけで、打ちのめされっぱなしじゃないやい、という自分への橋頭堡として残しておこうとしているんである。
そこには、もう半分を見終わってそんな余力が残っていないかも、という怖れに衝き動かされて、という一面もあるけどね。