よしみっちゃんとけんじくん
土屋賢二は「笑うな」と連発することで笑いを誘発するというボヤキ芸人なわけだが、中島義道は「笑うしかないでしょう、こんなチンケなぼくたちの人生」と言いつつ、本音は「…笑えないよねえ」と思っているのが透けて見えるボヤキ芸人と、その芸風は対称的だ。
ただ、これが本人たちの策略かあるいはその欠落かはわからないけれど、それぞれ芸人としておもしろがれる深さがだいぶ違う。
土屋賢二の場合は、文庫本の表紙はほとんどいしいひさいちが書いていて、その絵柄のあまりにもな哲学の教授っぽさ(柳原教授っぽさといってもいいが)の統一性に、ついついホンモノもこんな感じなのでは、と思っていると、本人の勤務先サイトにて、気の弱いオバサンぽいおじさんのような風体を目にしてがっくり脱力、というアミューズメントがついてくる。
いや、勝手にカバー絵と本人像を混同していたこちらのせいなのだが、芸風に加えこのギャップも含め、このひとにとっての哲学は「まず詭弁ありき」なのではと疑いたくなってくる。
一方、中島義道の場合。こちらは実物の写真をアエラなんかで見ると、いかにも気むずかしい哲学者という外見で、イメージを裏切られることがない。
しかも、著書を一冊、また一冊と読んでいくと、哲学とはこのヒトにとって、人生を気むずかしく見る方法になってしまっているという救いのなさに、だんだんと浸食されてくる。これはもはやアミューズメントではない。
なんでそうなってしまっているのか、というのは、ひとえにそれぞれの著者の生来の性格に依るとしか言えないが、それにしても、哲学を芸にする、というのは露悪的だなあ、と思う。