読んだり食べたり書き付けたり

霊長類ヒト科アゲアシトリ属ジュウバコツツキ目の妄想多め日録

[読闘]横書きと縦書きの土曜

一年ぶりにプラハ教区副管区長に家族ミサをあげてもらうという、とてつもない贅沢。いや、今まであまり意識していなかったことのほうが贅沢か。ミサ後、私学会館みたいなもののレストランにて、神父、切れない鰻に苦慮。「ナイフもらいましょうか」に、温泉文化に落語のサゲや、ちょっとした川柳レベルまでの日本文化を愛し、咀嚼して半世紀近い彼は、「そんな恥ずかしいことできません」。

さて、この神父、ウソと法螺を明確に分け、法螺を吹くのは大好きという狐狸庵先生のごときチェコ人なのだが、ネットなどの日本語横書きと、縦書きとのリズムなどの違いの話から派生して、今回また、過去に吹いた法螺話を聞く。

神父の所属する修道会の後輩に当たる人物が日本に赴任してきた際のこと。神父いわく「日本ではかつて、文字を横書きにした際、右から左に読んだのです。ごらんなさい、あの看板を。あれは漢文を読み下すように、『帯地、全ク安シ』と読む帯屋の広告です」と、『安全地帯』の表示について法螺を吹いたという。

そのほかに、ネット恋愛、討論などでなぜ誤謬が起こるか、についてなど。ネットでのように、言葉のみを切り離してやりとりする、ということは、対話において人が求める非言語的接触(手紙の筆跡なども含め*1)を欠いている。
が、言葉を尽くせばその部分を埋められると勘違いし、ますますネットに言葉を投入する。しかし、当然ながら非言語的接触への希求は言語のみでは埋められない。が、ひとは言葉でしか思考が出来ないので、そこに気づかず、誤謬にはまってネット中毒者が増える、という話など。

*1:友人に指摘されたが、これ、アベラール&エロイーズ風な含蓄も含まれていたのだろうか? あの書簡集の、テキストに引きずられ、どんどん思いが昂進していく片方を、もう片方が平静にさせようとするという流れは言われてみれば、きわめて「ネット的」だ。