映画『ザ・コーポレーション』
- 作者: ジョエル・ベイカン,酒井泰介
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2004/11/10
- メディア: 単行本
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「会社」による社会の「会社化」を阻止するか、スピードを遅らせようとしたのが、社会主義や共産主義という取組みだったのであろう。
我々の社会が、産業革命による資本主義というインフラによって整備を始めた時点で、この映画で明かされる、社会の「会社」による系列化・序列化は、避けられない運命にあったと思われるからだ。
オーウェンやフーリエ、マルクスやエンゲルスは、資本主義という卵から生まれた「会社」という生物が、成長するにつれ、利益拡大を第一義に、社会をガン細胞のように蝕む怪物に成長するだろうと予測していたのではないか。
そこで予測されたとわたしが妄想するのはつまり、共産主義という妖怪が資本主義と拮抗しない場合に、「一つの妖怪が地球をはい廻っている−資本主義という妖怪が」と名指される時代の到来である。
イリッチが析出し、名付けた「学校化社会」とは、学童期からはじまり、年齢別に学校に収容され、社会化されていくことが当たり前という、我々の社会の一側面である。
そこでは、社会のための人材を送り出していたはずの学校が、いつのまにか社会の序列化の基準、つまり学歴という妖怪を生み出した。
「学校化社会」の構成員は、この、学歴による序列から完全に逃れることは出来ない。出来るとすれば、それは、その時点で最高の学歴を身につけた「超越者」になることが要件となる。
同じように、生まれ落ちた時から「会社」によって生み出される品物、サービスによって育まれるのが当たり前の社会では、自分を生き長らえさせる産物を生み出す「会社」を長らえさせることが、同時に人間自身を長らえさせることとウロボロスの関係にある。
さて、そこから逃れるにはどうすればよいのだろうか。そのような「会社」によって構成される物質社会を出て、アーミッシュの人々のように生活をするしかないのだろうか?
しかし、もとからアーミッシュのコミューンに生まれ育った人々も、その生活習慣を維持するのに多大な自制心を必要とする状況もあるという現代、我々が果たしてどこまでそのような生活をできるであろうか?
フェアトレードを活用することは? しかし、その産物を流通させるのは、「会社」だ。そして、もしかしたらそのフェアトレード作物の作付量は、政治的な思惑により、世界的大企業という「会社」が、世界銀行などを通じて左右しているのかもしれないのだ。
そのように、「会社」の利益拡大のための働き蜂として消費される我々の行き止まりの姿を、この映画は容赦なく描き出す。
そして、観客には、大資本家がそろって共産主義に転向する、という奇跡でも起こらない限り、この状況を変えることはできないのではないか、というあまりにも重いショックが手渡される(もちろんその奇跡が起こったからと言って、すでに「学校化社会」、あるいはまた別の社会構成要素と緊密に絡み合った「会社化社会」が、簡単に再構成できるわけでもないのだが)。
この作品はかように、楽しい映画ではまったくないのだが、だがしかし、見るべき映画であると思う。
*1:DVD発売予定は未定のようなので、原作書籍『ザ・コーポレーション』をリンク。