読んだり食べたり書き付けたり

霊長類ヒト科アゲアシトリ属ジュウバコツツキ目の妄想多め日録

『ツ、イ、ラ、ク』

 


文庫になってようやく読んだ。読んでいる最中に思ったのは、「作者は『愛人(ラマン)』をどれだけ念頭に置いていたのだろうか/置いていなかったのだろうか」ということ。だってそっくりですよね、構成が。


片や、近畿地方の田舎町の、それぞれの円が少しずつ重なり合う「サロン」で構成された閉じたコミュニティでの、年端もいかない少女と聖職にある青年との知られたらヒジョーにまずい性愛関係、しかもお互い「たかが」と思っていたのがどうしようもなく恋に溺れていたということがその関係を終わらせてから判る。


片や、フランス本国からすれば世界の片田舎のアジアの植民地での閉鎖的なフランス人コミュニティの年端もいかない少女と地元富裕層の青年との知られたらヒジョーにまずい性愛関係、こちらもお互い性愛目的で未来のない関係と割り切っていたはずが…。


で、思うのは、仏領インドシナに暮らしたことのある人は、『愛人(ラマン)』を読んだ時に、わたしが『ツ、イ、ラ、ク』を読んだ時のように「ああ、そういうサロンとかコミュニティの空気、わかる」と思うものなのだろうか、と。それくらい、この作品の田舎の中学高校とそれをめぐる描写が「わかる」ものだった。


ただ、日本海側の中規模都市で中学高校を過したわたしには、この作品の状況は中学では起きなかっただろうなあと思った。わたしが中学の頃、周囲にいた男子は、この作品での小学校高学年程度に馬鹿で野蛮だったし、残酷さに関して言えばそれは高校くらいにならないとこの作品程度には結実しないようなのどかさであった。


よく、「田舎はのどか」などという言説がなんの裏づけもなく持ち出されるが、その「のどか」というものが開放的であり多様性(上記のわたしの経験のような「マセない」という停滞も含む)を許すものを指すならば、この作品の舞台となるような田舎には「のどか」などというものはないと思う。閉鎖的なコミュニティでは人の悪意があっという間に煮詰められがちなので、停滞している人間は格好の餌食になり、そのままの「のどか」な状態ではいられないからだ。


そういう意味では、適度に田舎、適度に都会(というか首都圏に気軽に出て行ける環境がある)な地方の中規模都市というのは、適度に目が届かないところが温存されるので、実は意外に「のどか」な人間が生き残りやすい環境だとわたしは思う。そういう意味では親に「ごゆっくりさま」とあだ名されたわたしにとって、中学高校時代は「のどか」な時代であった。


とかそういうことを、読み終わってから考えていた。