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存在の不確実性の種子を

わたしがいつ、どこで拾ってしまったのかといえば、それはついさっきまで、タイトルを『人間そっくり』だと勘違いしておぼえていたため、検索するたび安部公房のそれとかが出てきて首をひねっていた、PKDのある短編を読んだときだと思う。

この短編、正しい邦訳タイトルは『にせ者』といい、わたしが読んだのはハヤカワの『世界SF全集』の32巻に収められていたものだ。これをなぜ『人間そっくり』というタイトルだと思い込んでいたのか。たぶん、その後取り憑かれたように読み進んで行ったPKDのほかの作品のひとつ、『まだ人間じゃない』のタイトルだけが紛れ込んでしまったのかもしれない(ちなみに『にせ者』と『まだ人間じゃない』 の筋はほとんど似ていない)。

なお、安部公房岡本太郎との対談で、「人間そっくりの爆弾が主人公のSF小説が面白い」と発言しているのだが、おそらくそれはこの『にせ者』のことであろう。

『にせ者』のなにが衝撃だったかというと、「本人が自分をオリジナルだと思っていることが、オリジナルの存在証明になるとは限らない?!」という命題だった。これをいまだ自分と外界の区別のはっきりしない空想好きの小学生が読んでしまったら、そりゃあ、ガツンと来るでしょう。同時期に読み始めていた筒井康隆を、瞬間風速で確実に凌駕したもんなあ。なにせ、そのころの筒井の世界は、PKDほど自己の境界について言及してなかったし。

さて、そこでガツンと埋め込まれた種子は、同じくPKDの『地図にない町』や、『世界SF全集』のその他の作家の作品を養分にすくすく育った。ちなみにこの全集のなかの「日本編」には、自分の生身のはずの夫がアンドロイド(しかも政府の実験用)で、よその女性型アンドロイドと電気心中したためにゲシュタルト崩壊を起こす奥様のお話、なんていう、きわめて『攻殻』っぽい短編も収められていたっけ。

そんなPKDは、あれをあのとき読んでさえいなければ、とわたしが思う唯一の作家だ。なにせ、子どもが子どもらしさを求められる年代に「自分という存在の不確実性」なんぞという面倒な思惟を招く木が、彼のせいですっかりわたしのなかに根を張ってしまったせいで、わたしの子ども時代は、あんまり子どもっぽくなくなってしまったのだ。周囲には「こいつキモい」と思われたのか、イジメにあったりしたしね。

そしておそらく、全世界に、「読みたくなかったとは言わないけど、あのとき読むんじゃなかった」と、幼少期のPKD体験を後悔している人々は、きっとたくさんいるんじゃないかと思う。

でなけりゃ「自分は自分じゃないのかも?」というテーマのPKD作品ばかりが映画化されるわけがない。あえてそのトラウマを映像化することで「これは映画だから!」と安心することは、しかし、可能だろうか?

ところでなんでこの人はPKDをFKDと書いているのだろう…>
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0883.html