読んだり食べたり書き付けたり

霊長類ヒト科アゲアシトリ属ジュウバコツツキ目の妄想多め日録

蒸し暑い完全言語

◆蒸し暑い日は

カレーに限る! というわけで、お米も香り米を買ってきてチキンのグリーンカレー。すこし豆乳を入れて辛さを自分用に調節。食べる前からうちじゅう、お米のよい香りで酔いそうです。とてもいい中国茶を飲み続けたときみたい。

しかし、炊いた香り米がカレーの倍量くらいなので、明日は引き続きレッドカレーにしようかと思います。タイ風チャーハンでもいいけどね。

といっても明日、歯医者で大変なことになってなければだけど…


◆完全言語という症例

完全言語の試みは、大きく言ってふたつある。

ひとつめは、主にキリスト教思想に基づいた試みだった。その基本設計思想は、おおざっぱに言うと次のようなものである。

「世界は人間のために神によって作られた。ならば世界のすべての事物と、そこから起こるすべての事象は、人間にとって把握可能なはずである。それが現在、不可能なのは、『バベルの塔』事件によって人間の言語が不完全になっているからである。ならば、当時のキリスト教世界の共通語であるラテン語、あるいはそれに替わる適切な新言語体系によって、世界の表現は完全なものにできるのでは?」。

このひとつめの試みは、このような不遜な考えによる不遜な試みであると同時に、「世界を自分たちの論理で把握しなければ」という神経症的な試みのように思える。

これは、そのころ明らかに宗教体系・文化形態の異なる世界とヨーロッパが接触していたことと関連していたのではないだろうか。キリスト教よりさらに厳密に偶像崇拝を禁じ、当時のヨーロッパより技術的・学問的に高水準にあったアラブ世界や、内なる異界としてのユダヤ人文化、同じキリスト教世界でも「辺境」に赴くと、現地の土俗宗教と混交して発現している文化たち。

そんななかで、もともとギリシャ世界の思想と妥協することで神聖ローマ帝国を安定したものにした、決して純粋ではない出自を持つキリスト教世界の文化人たちは、無意識のうちに、神の作った世界という基準にすがりながら、世界を完全に言語化していくことで「安心」したかったのではないか。だからこそ植物図鑑のラテン語命名が、未踏世界で発見された、現地では固有の名前を持つものにさえ適用され続けたのだろう。

しかし、残念ながらというよりも、幸福なことに、世界はそのような人間が考える人工的な完全言語で把握できるようなものではない。もし、神が存在するとしても、人間を超越した存在は、人間の理性で把握しきれるような論理によって、世界を作ることはないだろう。そういうわけで、キリスト教という権威から考え出された完全言語は、どれも実用化には至らなかった。

この試みが、キリスト教を至上のものとする権威から発生したものとするならば、ふたつめの完全言語の試みは、世界をひとつの文化基準・論理基準で覆いつくそうとするメジャーな言語の力に対するカウンター・カルチャーとして東欧で生まれた。しかも、過去何世代にもわたり、何人ものひとびとが挑戦してなし得なかった完全言語の試みは、たった一人によって達成された。

この言語の仕組みは、「世界中の人々が言語によって自由に行き来するのに必要最低限の要素はなにか」、という設計思想のもとに、名詞・形容詞・動詞の変化などが共通していて、文法・発音も簡潔、という特徴を持つものだった。

その言語は完全言語というより世界言語という言葉で呼ばれるほうがふさわしいくらいに、生れ落ちた土地から文学者・言語学者・数学者・論理学者の共感を呼び、ほうぼうに広まっていった。日本でも1919年に学会が創設されたが、その構成員には学者や教師ばかりではなく、僧侶も含まれていた。

残念ながら、ひとつめの完全言語の時代から現在まで変わらない、近代化する国家に固有の言語中心主義のために、いったんはその思想性と簡便性によって世界中に広まったこの言葉は、現在は趣味的なものになってしまっている。開発者個人の、世界の人々を言葉で繋ぎ、平和な世界へ向かいたいという希いは、個人を超えた国家の論理を凌駕することはできなかったのである。その言葉の名前はエスペラント、意味は、「希望する者」、である。

なお、わたしには、ひとつめの完全言語を成り立たせてると予想する要因のひとつはよくわかる。神による世界を人間の言語で再構成する、ということにはあまり興味がないのだが、言語によって事物や事象を説明しつくす、というのは、文章を書くときに常にひとつのイデアとして内部にあるからだ。それは、ときには「あるひとつの物事を完全に言語化することができたら、もう書く必要はないと思えるのでは」、とさえ思えるほどの思い込みである。

もちろん、ひとつの出来事を言語化しても、生きている限りまったく別の出来事と、それにまつわるまったく別の感じ方が、その出来事を言語化している過程でさえおこってくるのだから、そんな満足があったとしても、そう長くは続かないということは、理屈ではわかっている。

しかし、それでも、言語、つまり他人にわかる状態で自分に起こったことを表現しつくしたいという欲望は、すでに「なにを表現したいか」、ではなく、「完全に表現したい。対象がなんであろうと」、という本末転倒な症状としてわたしに巣食っているのだ。その意味では、わたしと言語表現をめぐる関係は、いささか神経症的なものだと思う。