コトバが足りてなくない?
これから書くことはキリスト教の、それもカトリックという一宗派における言葉遣いの一見、些細な問題というマイナーにして重箱の隅をつつくような話で、「気のせいじゃん?」と言われればそれまでのことなのだけれど、どーしても気になってしょうがないので書いてみる。
天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を今日も お与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。
アーメン
この↑現代語に訳し直された新『主の祈り』に慣れることがなかなかできない。ミサの際、文語の旧『主の祈り』のためのメロディーそのまんまに新『主の祈り』が滑り落ちそうに載せられているのも歯痒く、気持ち悪いのだ。
いっそ教会で口ずさまれたり歌われる聖句が、すべて文語現代語どちらかに統一されていれば、文語で表現されている含みが、現代語に訳し直された部分には反映されてない、とか、文語のために作られた曲と現代語の聖句が合ってない、とかいちいち意識しなくてすむ、あるいは意識する回数は格段に減るだろう。
とはいえ、じゃあなにもかも時代に合わせて現代語に直しちゃえ、というのもどうかと思う。聖句というのはただ単にわかりやすきゃーいい、というものじゃないと思うし。それに、旧『主の祈り』だって、祈りということがどういうことか感得していれば、子どもでもおぼろげに意味の分かる表現だと思う↓。
天にましますわれらの父よ、願わくはみ名のとうとまれんことを、み国の来らんことを。み旨の天に行わるるごとく、地にも行われんことを。
われらの日用の糧(かて)を、今日(こんにち)われらに与えたまえ。
われらが人に許すごとくわれらの罪を許したまえ。
われらを試みに引きたまわざれ、われらを悪より救いたまえ。
アーメン
やはり、文語表現に込められた、練られた文言の力というものが、聖句には必要だろうと思う。ただ単にわかりやすいだけの文言に、言霊はこもらない。ここには、用の美がそのまま適用はされないと思う。
新旧『主の祈り』で比較してみると、たとえばこんなとこ。
旧:
われらが人に許すごとくわれらの罪を赦したまえ。新:
わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。
新のほうは、旧にある「〜のごとく」がぜんぜん反映されてないんである。神の人への罰の下し方や赦しというのは、「人間のごとく」という次元のものではありえないところを、「せめてわれわれ人間が同輩を赦す程度には」神よ赦したまえ、という旧の「〜のごとく」に込められた祈りが、新のほうからは読み取れない。むしろ、新のこのぶっきらぼうな二文節からは、神への交換条件を突きつけているかのような不遜ささえ感じる。
もちろん、これが唱えられる状況からは、けしてそうではありえないのだが、単体として見た場合、新『主の祈り』には聖句としての言霊が欠けている。
ほかにも、旧ではこの部分↓で、なぜ「われら」が二度繰り返されているのか、という点も興味深い。
旧:
われらの日用の糧(かて)を、今日(こんにち)われらに与えたまえ。新:
わたしたちの日ごとの糧を今日も お与えください。
ここで新の場合は、内輪的な「われら」に今日、寝食が昨日までと同じく保証されているとしても、内輪の外側の、つまり神対人とした場合の大きなくくりの「われら」には、そうではない人々がたくさんいる。新で「われら」が二度繰り返されていない部分を読むと、「わたしたちに今日も」って、昨日までも与えられていない人たちには思いをはせないの? 祈らないの? という気分になってくるのだ。
それから、『主の祈り』以外によく使われる聖句では、たとえば、この言葉↓。
国と力と栄光は、限りなくあなたのもの。世々にいたるまで。アーメン
という聖句は、現代語ではこうなって↓いるらしい(あまり現代語で使っている現場を見ないけれど)。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。
うーん、なんか違う。なんかが違うだろー。「限りなく」という聖句からは、続く「世々にいたるまで」とも合わせて、時空間双方への言及が読み取れるが、「永遠に」からは時間的な指示しか読み取れない。
さらに言うなら、「限りなく」の文言からは、「国」の境界を越える力を感じることも可能だけれど、「永遠に」からは国境線はフィクスされたままで、時間的には、という気配さえ感じる。
さて、そんな現代語訳の一方で、文語のまま使われている聖句も大量にある。たとえばよく使われるものとしては、こんなの↓。
天のいと高きところには神に栄光、地には善意の人に平和あれ。われら主をほめ主をたたえ、主をおがみ、主をあがめ、主の大いなる栄光のゆえに感謝したてまつる。
神なる主、天の王、全能の父なる神よ。
主なる御ひとり子、イエズス・キリストよ。
神なる主、神の子羊、父のみ子よ。世の罪を除きたもう主よ、われらをあわれみたまえ。
世の罪を除きたもう主よ、われらの願いを聞きいれたまえ。
父の右に座したもう主よ、われらをあわれみたまえ。主のみ聖なり。主のみ王なり。
主のみいと高し、イエズス・キリストよ。聖霊とともに父なる神の栄光のうちに。
アーメン
旧『主の祈り』の文語が理解できない層に「感謝したてまつる」はねーよ。ありえない。あと、「〜たまえ」はまだしも、「除きたもう」もないだろう。
しかし、ちょっと気になるのは、この聖句の文語現代語の別、神父のみが唱えたり、神父が先唱したりするのは文語のままが多いような気がするのよね。
それこそ、気のせいかしら?
翻訳者多数
『小公女』についてちょっと調べようと思ってどんな人が訳しているのかアマゾンって見たら…
伊藤整(『チャタレイ夫人の恋人』翻訳者の!)
曽野 綾子(共訳)
川端 康成(『小公子』も訳してるのであまり意外ではないけど)
立原 えりか(オリジナルの童話だけでは足りんか〜)
その他その他で何十件も。わたなべまさこがマンガ化してたりもする。愛されてるのねー。
でもこんなにいろんな訳者のがあるのに、わたしが親しんでた猪熊葉子さん(メアリー・ノートンやローズマリー・サトクリフ、トールキンにフィリパ・ピアス、ルーシー・M・ボストンなどの児童文学の名品を翻訳してるひと)のはリストになし。ちぇっちぇっ。